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♯01不動の兵藤教室 Part.3

—正確に嘘をつくこと―

俳優・兵藤公美による俳優養成ワークショップ「不動の兵藤教室」のレポート掲載第1弾、Part.3。前回の記事では、ワークショップ受講生である演劇ユニット「情熱のフラミンゴ」主催の島村和秀と俳優Oさんの演劇創作におけるそれぞれの背景を聞き、演出家が渡すべきイメージと俳優が持つべきイメージについての問答になった。Part.3では「役」と「自分」の距離の持ち方や、俳優と演出家の関係性について迫った。「不動の兵藤教室」第1回掲載、完結編。

Part.1,2を未読の方はこちらから。
♯01不動の兵藤教室part1
♯01不動の兵藤教室part2

「演劇って俳優が本気で嘘ついていくことだと思う(兵藤)」

兵藤:そもそも、演劇っていい大人が嘘っこやってるっていうのが私にはある。だから、その嘘っこの部分を大事にしてってもいいじゃないか、その嘘をつくってことが重要なんじゃないかなと思うの。

これは演技のアプローチの仕方、スタンスの話しなんだけど、イメージをして、台本の状況とか関係性とか、どんな風に動くだろうとかそいういう、イメージを行為に移すとき、つまり、演じるときね。思い込んで思い詰めて、必死にやろうとすることは、結果的に生理的な状態になり辛い。真実を目指してやろうとするのは間違いではないだけど、その目指し方のアプローチが違う。結果、やることは同じなんだけど。私は正確に嘘をつくっていう考え方の方がアダルトでいいかなという気がしてて。俳優のメンタルの話ね。
島村:嘘をつくことを表現するのではなくて、自分が嘘をついているってことを自覚しながら、嘘がバレない様に表現をする。
兵藤:という、作業だよね。演技って。私がさっきまで言ってきたことはガチガチな演技術だって気がするんだけど、これって『ごっこ』じゃん。嘘っこじゃん。そういう視点をもった方が俳優はいいんじゃないかっていうことを私は最近思います。

正確に分析して、それをまじめにやるっていうやり方もいいとは思うの。でも、私は楽しみたいというのがあって。まじめにやりすぎても恥ずかしいよねっていうのがある。だって、いい大人が嘘っこごっこしてるんですよ。

演劇って、そういう視点をもった俳優が本気で嘘ついてくことだと思う。

そのためにはバレないようにちゃんと台本の意図を正確に読み取る必要がある。この話は心構えの問題です。演技術ではなく。俳優としての考え方のひとつね。もう1回言うよ。「正確に嘘をつく」ほうが役との距離があって、その世界のプレイみたいな発想にもなって、私は楽しいなっていう気がする。この脚本(島村が持参した脚本)だと昔のカップルが再開したプレイみたいな捉え方。
坊薗:やることは変わんない。
兵藤:変わんない。心持ちっていうんですかね。
坊薗:これまでの話の次の段階だね。
島村:すごくしっくりきました。本物を目指そうとしているっていうことに無理が生じちゃうっていう気がしてて。嘘をバレないようにやるっていうことの方が無理がない。
兵藤:そういう心持ちでやると稽古のときに煮詰まらないし、ぶれづらいんじゃないかっていう仮説ですけどね。
島村:俳優それぞれ、心の持ち方はありそうだけど、兵藤さんの「嘘っこ論」は親しみをもちやすいですね。
兵藤:でも正確に嘘をつき続けると、嘘が本当になるんだけどね。これはまたおいおい。

—稽古や本番で集中するためのレシピ―

O:それじゃあ、私もいいですか?私が聞きたいことは“心持ち”についての話なんですけど…。今回の稽古は先程も言った通り3日で仕上げたんです。初日は私の家、2日目は河原、3日目はカラオケ店で稽古したんですけど、初日と3日目が感覚的にしっくりこなかたんですね。
兵藤:ちょっと今日、やる気でないよねっていう日あるよね。
O:2日目の河原のときは「島村君が死んだら絶対思い出すな」っていうくらい楽しかったっていうか。集中できた日だったんですね。
兵藤:自分の気持ちによるところみたいな?
O:機嫌が悪いわけじゃないんですけど、他の日は気持ち的にもうまくいかなかったと思っていて。島村君はどうだったかな。
島村:それは多少なりともありました。
兵藤:いい稽古と悪い稽古が度々訪れるみたいな。全部いい稽古にしたいのにそれが出来ない。
O:そうなんです。でもいい稽古にするつもりで自分も挑んではいるんですけど、しっくりこないときがあって…。少しズレるんですけど、演劇じゃなくても恋人との仲でもそういうことはある気がして。なんにもないのに、今日はこの人と仲良くできない、という。気持の問題というか。
兵藤:モチベーションの問題?
O:そうです!
兵藤:今日は、恋人と常にこの距離感をキープして接してしまう、とかって感じかな?ああ、確かに演劇に繋がるかもね。
O:そのへんを分かりたいっていうか、コントロールじゃないですけど、稽古の場合は時間がない中だからちゃんと集中してやりたいじゃないですか!?
兵藤:その集中にもっていくプロセスのレシピを知りたいみたいな?
O:そうですね。ちゃんと睡眠を取るなどはわかってるんですけど。
兵藤:自己管理はもちろん大切です。そうではなく、これは実動の部分、実際に稽古するときの話ですよね。
O:さっき島村君が「その世界の人にさせる」っていう風に言ってましたけど。もし「その世界の人」があるとして、私はこの脚本の中で誰なのか、自分自身であるのか役の人物であるのかということが決まっていれば、そこに集中してくことができると思うんですけど…。

もし、「劇の中の人物」がしっかり決まっていれば個人的な役者のモチベーションの浮き沈みから離れられる気がしていて。そうすれば質の良いクリエイティブな時間になるんじゃないかと思います。でも今回の脚本は私と島村くんが話したことが元になっているんですよね。
坊薗:アテ書きだ。
兵藤:自分と役が近すぎるっていうこともあるかもね。この脚本に限っていえば。
坊薗:自分と近すぎて、役との境目がない分、日々のモチベーションに左右されてしまうんじゃないかということかな?
O:そうかもしれませんし…、うーん。そもそも、今まで島村君は台本が始めからあって、みんながその脚本ありきで稽古していたんです。たから、私の意見を言う余地はなかったんです。台本を読んでこの役の人はこういう人なんだねって、理解をしてやってた。でも最近の島村君は発言権をくれるようになったんです。
兵藤:欧米スタイルになったんだ。
O:だから、私も発言してよい気がするんです。でもそういう皆で作る稽古場に慣れていないというのもあって、実際に役のことがわからないとなったときに、沈んでしまったり、機嫌が悪くなったように見えてしまうみたいなんです。
兵藤:なるほど。聞いてて思ったのは、Oさんの問題は演出家とのコミュニケーションをどうとるかという話でもあるみたいですね。

でも、そのコミュニケーションの問題は演出家や作家によるから、毎回違うと思っていい、と私は思っています。今回の場合は作家性の部分も俳優に求めらる現場だったんです。そのときに演技的観点のレシピみたいなのをもっていられたら、それを軸にじゃぁどうしたいかなというのを考えられるかもしれないね。
島村:レシピですか。
兵藤:体系化した役の組み立て方という意味でのレシピ。ただ、今回の二人の場合は話し合いを前提とする稽古だから、俳優が滞っているときに演出家に直接聞くことができて、イメージをくれたりもする。あて書きだしね。だから、今回に限っていえば、もしかしたらレシピなしでもいけるっていう現場かもしれない。
O:はい。
兵藤:誤解がないように言っておくけど、俳優が滞っているときは演出家に聞くことは問題ないんですよ。
坊薗:そうだよね。聞いてもいいよね。でも、通常ならある程度イメージをもって、そこを共有するところから始まるから1から10まで聞くことはできないじゃない。本当にわかんなくなったら聞くけど、聞き辛い現場はあるしね。だから、今回は俳優自身が感じたことで対応してよかったんだね。
兵藤:人間同士の関係性は絶対あるからね。島村君とOさんの関係性に置いては成立していることだし。喧嘩しながらつくる人たちもいるしね。
O:だとしたら、その、機嫌の良し悪しというか、稽古ごとにうまくいったか、いってないかなって思うのは悪いことではないってことですか?
兵藤:そうだと思います。気分とか体調の変化とか日々変わるからね。でも、そういうことに対応していくのがプロってことにはなるかな。
坊薗:そうだ。メンタルをコントロールするのも演技術なんですよね。
兵藤:そうです。上手くいったと感じたときっていうのは“相手役と通じているな”とか“つながっているな”と感じたときだったんじゃないかな?実感もってやれたときって、すごく気持ちがいいんだと私は思うんです。逆にうまくいかなかったって思うときは、なんか気持ち良く出来なかった時だったり、実感もってやれなかったりするときなんじゃないかと。
坊薗:はい!(手をあげて) 一番最初(Part 2で)に兵藤さんが言ってたけど、Oさんは、イメージからではなく直接、気持ちを再現しようとしてたから、実感を持とうにも出来なかったのかも。それはハナっから無理なことだとわかったけど、その時点ではその気持ちを再現できないことが【うまくいかない】ってことになってたのかも。

さらに言えば、さきほどの嘘っこの話にも通じると思うんだけど…。役の気持ちを本当に演じなければと思うからその上手くいかないと思うことがでてきてしまうけど、先ほどの嘘っこだって思うことをベースに考えると、自分の気持ちがついていかなくても、嘘を正確につくという意識に戻れば、ぶれが少なくなるんじゃないですか!?いつでも本当を演じなければいけないという余計なプレッシャーがかからない。
兵藤:機嫌悪くてもできるよね。
坊薗:“本当に”を感じなきゃいけないと思っているから機嫌が悪いことをダメだと思っちゃうんじゃない?
兵藤:機嫌が悪いと役の気持ちになれないとか私だったらこうしないとかがでてくる。嘘っこだったらどれでもありになる。本当でやろうとするから私の生理に合わないって思うんだよね。いや、あなたの生理とかどうでもいいから、って。ただ、さっきも言ったけど、今回の作り方はそもそもがOさんの生理に合わせるっていう作り方ではあるから、ブレることも多少はありだということです。違いはわかるかしら。
O :わかります。
坊薗:役が近い分ね。

「状況や関係性とかを読み取れば自分も何も、相手とコミュニケーション取るだけ(兵藤)」

兵藤:でもね、学生たちとやってるとねよくあるのが自分だったらこうしますとか、こうしないとかいうのをたびたび聞くのね。そういうのはありえないんじゃないかと思ってて。だって自分とかないじゃん。
島村:演劇においてですね。
兵藤:そう。状況や関係性とかを読み取れば自分も何も、相手とコミュニケーション取るだけでしょ。そういうところに自分だったらこうするっていう発想は演技をはじめたての人にはよくあることかもね。
坊薗:自分を使うからこそ、勘違いする部分はあるのよ。
兵藤:そうなのよ。これはね、紙一重のところで、演技は「自分」を使うものだし、だからこそ今私がここにいることでいいみたいなことにもなるんだけど、そうするとまるで私の生理っていうことを追求したくなるんだよね。

私はどう感じる、感じてるというものは、恐れず言うならばそこは役の生理が大事なんですよ。じゃぁ役の生理って何?ってなったら、この2人がどういう関係性なのかどういう状況なのかってことをイメージしておけば、その役が選択する行為に及ぶはずだと私は思う。だから、私だったらこうするという選択はないと思います。
島村:経験の差かもしれないけど、言ってることはわかるんですけど実感として湧いてこないというか。
坊薗:私、以前“ボウゾノ”っていうアテ書きで書かれた役を演じたことがあるんだけどね。その時はそのまんま、役者としての坊薗の生理で演じられたの。ただ最後の段階で、私、つまり坊薗なら絶対選択しないっていう台詞が書かれて、むきーってなったの。私だったら、そんなこと言わない!!みたいな。

だけどよく考えたら、この演劇の中の“ボウゾノ”はそういう台詞を言う人だと気づいてね。坊薗と名乗っているけど、これは“ボウゾノ”という役でしかないと。

名前も、設定も似てたから混同というか役と同一化してたんだよね。そのことに気づいたときは恥ずかしかったな。これは極端な例だけど。そういうことだよね?
兵藤:そういうことだね。
O:そっかぁ、わかりました。それじゃあもうひとつ、質問してもいいですか。
兵藤:どうぞ。

—俳優は主観しか持ちえない。ではどうやって自分のパフォーマンスを評価する?—

O:映画とか物語に現れる人たちってその作品に現れる理由がある人たちなわけじゃないですか。作品に出てくる訳があるひとたち。役がある人物たちは意味があって生まれてくる。エキストラは別としてですけど。
兵藤:何かしらを背負ってね。
O:でもなかにはその作品にいる意味がわからない登場人物もいると思うんですね。もし、そういう人を演じる場合、どういう気持ちで演じればいいんですかね?

自分がいる意味がわかってて演技するって自信がつくじゃないですか。安心できる。でも今兵藤さんが言ったやり方だと、演じるときにそれを面白いとか思わずにその場に立つということになる。そういう場合、今兵藤さんが教えてくれたやり方で演じることが難しくなるんじゃないかと。そのいろいろなイメージとか設定を集めて演技するわけじすけど、結果、自分がやっていることが面白いかどうかわかんないですよね。
兵藤:そうかもしれない。俳優って客観性を持てないから。俳優は主観でしかない、舞台に立つときは。自分がどう見えてるかは第三者にしかわからないことなのね。だから自分の演技が面白いのかどうかは自分ではわからない。ただ、ジャッジしたくなるじゃない?

そういうときは《自分が気持ち良いか良くないか》で判断していいんじゃないかな。演技自体をやってて楽しいとか。言い方変えると“滞ってない状態”であるかとか、何にも考えなくてもできるとか。話してたら勝手に演技しちゃってるとか。先にこうしようとか考えたりしないとか。今、失敗だなとかの自己評価もしてないとか。全部が通っているみたいなことが、俳優が唯一今のパフォーマンスを評価できることなんじゃないかという気がする。

俳優は自信がないものだし、いつでも不安なもの。だからこそ、演出家の客観的な意見を信頼できるはずなの。それと、共演者と今私たちラリーしてるよね、とか、アンサンブルで繋がっているよね、みたいなことも頼りのひとつになる。

ある程度は自分のやり方というかメソッドに頼るというのもひとつの手。体系化された演技術がわかっていると自信はつくから。でも行き過ぎると、この演技術、演技法をやってれば間違いない、私は面白いことできてる、自分が正しいっていう風に思ってしまう。そうすると演出家の言うこともいまいち信用できなくなる。えっ、だってこのやり方でやっているからさ、って。

そうすると、相手役に対しても、なんでわかんないの?となってきたり、したりね。それは危険だと思うのね。俳優は不安なものだから信じたくなる。安心したいしね。

でも何度も言うけど、俳優はそもそも自分のことは見えないから、不安なものなんだと思う。そいういうものなので、それでいい。だからこそ演出家の言うことをちゃんと聞ける。よりよくなれる。相手役をしっかりみることができる。こころもとないから、一緒にやる人がいると安心できるし。そういうことを大切にするといいと思う。
坊薗:弱さを受け入れる方が強くなるって感じですね。

「人が近くにくるのが嫌いです。それは我慢することでしょうか?(岡部)」

O:あの…もうひとつ質問いいですか!?
兵藤:どうぞ。
O:役の生理と自分の生理とあるっていったじゃないですか。私、あんまり人が近くにくるのが嫌いなんですね。恋人同士みたいな設定で目を合わせるとかもすごい嫌なんですよ。それは自分の生理なんですけど。

役の生理としては恋人だから、普通に目を合わせることもできると思うんですけど…。そのときの気持ちの戦いがあるじゃないですか。

今回の脚本でも元恋人同士だから、一瞬目が合うシーンがあるんですけど、その時は島村くんがオレの顎を見ててくればいいからって言われて、それはとても助かったんですけど。役の生理に自分の生理が追い付かない場合でも、やっぱやらなきゃいけないんですかね?
兵藤:それができることが役者みたいな?
O:それはトイレガマンすると同じことですよね?
兵藤:違うと思う。あくまで私はそれは俳優の個性だと思ってんのね。それが私は面白いことなんじゃないかと考えてる。状況はわかってるんだけど、自分の生理が追い付かない。大きい話をすると、自分の心と身体でしか演技はできないから。それってそれぞれ何かしらの問題に直面することがある。近寄らなきゃいけないのに、自分の体臭が気になるとかね。
島村:大学二年生のときに、キスする演技をする場面があったんですけど、実際、キスはしないんですけど、僕、まだそのときキスしたことなくて。童貞だったからぎりぎりの距離でも生理的に難しくて。演出家に最低ここまで近づかないとキスしているように見えないって言われてそこまでなんとか頑張りましたけど。ガマンしたほうがよかったんでしょうか?
兵藤:ああ、ガマン、ガマンの精神ね。イヤなことも我慢してやれなきゃいけないっていう。でもそれは我慢っていうか、俳優間のコミュニケーションの話だよね。やり辛くなると演技も発展しなくなるからね。相手役とのコミュニケーションだね。我慢してやるのとは少し違う。

私が俳優の観点で言わせていただくならば、さっき私も言いましたが、『俳優はできないことはない。何をやってもいい。』というのが、イコールで『俳優はなんでもできなきゃいけない人だ』に変換されてしまっていることが多い。
坊薗:この間、障害を持つ人の演劇を見たんだけどね。その人たちはその人固有の行動線をもっててね。ある方向にしか手が動かない人は手をある場所に持っていきたいと思っていても、物理的に不自由だから、その方向には直接はもっていけない。だから、違う筋道に一旦ずらして、そして本来持って行きたかった方向に手を動かすってことをしてたんだけど、それと似ているね。それはその俳優の身体の個性って言う意味で。
兵藤:俳優の個性だね。それにできないことってあるから。俳優として仕事をする上で「それは危険なんでできません」ということと同じだと思う。ちょっとここナイフ使うから刺さっちゃうかもしれないんですけど…って言われれも、いやナイフ刺さるのはイヤです、ってなりますよね?

「本物でやんなきゃいけない」とか、「俳優だから血がでたってしょがない」っていう考え方はマッチョだよね。それに価値を持っている人もいるけどさ。

俳優はできないことがあってもいいと私は思っている。自分の身体が商売道具だし。死にたくないしね。Oさんの場合もその距離だと私、吐きそうですってなるならそれはしょうがないよ。

できないものはできない。だからそこで俳優側からも提案はしないといけないと思うし、Oさんの場合は相手側にプレッシャーを与えてしまう可能性ある。相手役がそういうOさんに対してどう思うかも、考慮した上で
コミュニケーションをとった方がいいよね。相手ありきだから。あとは演出家とのコミュニケーションだと思うんだよね。

—瞬間を生きる生理的状態とは?—

兵藤:日本の演出家の中には「俳優はなんでもできる、なんでもやるもの」っていうマッチョな考え方の人も結構いると思うけど、私が知っているある演出家は紳士で俳優ができませんっていうと、じゃぁこっちでやりましょうとかあっさり変えるの。私はそれでいいと思う。
O:できないって、承認してもらった上で役をやるってことですね。
兵藤:そうだね。前もってものすごいラブシーンがある台本を貰ってたら私、ここの接触シーンはちょっと…私としては厳しいですけれども、とかって前もって相談していいと思うけど。稽古中に上がってきた台本でそういうシーンがあったらその場で話し合うしかないよね。稽古場っていうのは、どういう風に見せるかかを探る場所でもあるから。
坊薗:島村君がOさんに目線外していいよっていったのはなんか嫌そうなのを感じたの?
島村:僕はOさんを知ってたから。そういう人だって。
兵藤:そういうこと。俳優がやりやすいように導く。本来、演出家はそうだと思う。混同してはいけないのは役の生理を持ってすればできないことはない、だけど何でも出来なきゃいけないわけじゃない、ということ。出来ないことというのは“個性”でもある。その個性を尊重しつつ、稽古場で見せ方を探す。もちろん危険なシーンはなるべく見せ方を工夫すべきなんだけどね。
坊薗:結局、このOさんの生理的な問題の答えで、島村君の俳優をその世界の人にさせられるかという問題も解決しそうだね。
島村:します。俳優がそこの世界の人として存在させるコツのようなものがわかってきました。
坊薗:イメージするポイントを間違えてたから、伝えようとしてもよくわかんないことになっていたっていう。
島村:あまり演技に関係ないイメージを無理矢理、俳優にもたせようとしてた。大学時代の失敗もそこにつながる気がします。今まで、「だめ」ってことしか伝えることが出来なかったんですけど、俳優が必要とするイメージをもっと抽出して考えられてたら、当時、もっと適切な演出ができていた気がします。
兵藤:その世界の人にさせたり、その世界の人にする。俳優側からすればその世界の人になる。それは自分の生理感覚なものとは切り離せない。ただ、役の生理が見えるときに役の人物としてみえる。まるでその人みたいに。

それが、私が知りうる演技の魅力的で面白いとされる演技。赤ちゃんとか動物とかってずっと見てられるじゃん。それってまったく先のことがわからないからだと思うんだよね。

動物たちは、一瞬一瞬生きてるじゃん。だから全てにおいて心理的な時間がないよね。舞台上で、赤ちゃんとか動物でてくるとみんなそっちを視る。圧倒的に生理的状態だから、予測がつかないよね。

そういうものって魅力的なの、すごく。だから俳優もそういう風に舞台上にいられたら最高っていうのはあって。それって生理的なことなんだよね。その生理的なことって何かっていうと、意識の分散につながって全てのことを感知していく状態。アンテナたてて全てをキャッチしていく感覚。匂いっていうのも本当に匂ってたら反応できると思う、反応してしまうというか。

緊張してたり、役を作りすぎてると、その匂いがあっても匂いとか感じることができない。そうなると段取り演技になる。今、見えてるものがちゃんと見えてる。ちゃんと舞台上の飲み物見て、飲み物が喉を通過することが感じられている。物音が後ろから聞こえた時に気になるとか。全てを感知できるっていうのが生理的状態。そういうものは予想がつかないから魅力的にみえてしまう。瞬間、瞬間生きてるっていうリアリティを感じて、その俳優から目が離せなくなる。
島村:あと、1つ。気持ち良い状態で演技ができているかということが俳優が唯一、自分の演技を判断してよいところだって言ってましたけど、気持ちよくないって思う時は演技を変えた方がいいんですか?
兵藤:そういうのは何かが足りないってなってたり、過剰だったりする時だと思うんだけどね。それは演出家が観てわかると思う。
坊薗:そう。指摘されると、たしかに自分でも曖昧だったことに気付くことが多いよね。
兵藤:それでは、そろそろ島村くんが持ってきてくれたテキストを使って、稽古をして検証していきましょうか。

その後、休憩をはさんだ後、島村が持参したテキストを使って話したことを稽古に応用させていきました。「♯01不動の兵藤教室」レポート掲載はここまで。

この後のワークショップでは一体何が行われているのか興味がある方は、実際にワークショップを受けてみてください。今後、ワークショップ受講生を募集する予定になっています。
-坊薗初菜 編集後記-
このワークショップ「不動の兵藤教室」の記事は“演技”にまつわる様々な情報が詰まっています。受講者と同じ問題意識でないとピンとこない箇所はあると思いますが、兵藤さんが話している部分には、演技術が直接書かれてあるので、読む方が演劇関係者だとしたら、比較対象になるという意味でも優れた参考書になると思います。

会話形式で進められており、兵藤さんは早々に答えらしきワードを出してくれているのに、受講者はその時点ではピンときてないことがあります。そのため何度も同じ言葉がくり返されることもあります。その度に『 シマムラ、ほら、今だ、今、答えでてるよ。』と記事をまとめながら島村君たち(自分にも)に声をかけていました。にしても、兵藤さんは惜しげもなく自分の演技術を使って教えてくれてますね。お得です。
採録:坊薗初菜
写真:島村和秀
構成:坊薗初菜、島村和秀、兵藤公美
『不動の兵藤教室』
俳優・兵藤公美(青年団)が主催する少人数制の俳優ワークショップ。それぞれ参加した俳優の形に合わせた「演技術」の養成を行う。演技上の悩み解決から、台本を使った演技指導、新たな演技方法の模索など、様々なアプローチで俳優の自立をサポートする。『不動の兵藤教室』の内容は「そことここ」の特別企画として、不定期に連載。
講師:兵藤公美
サポート・解説:坊薗初菜
問い合わせ先:hudou.hyoudou@gmail.com
  • 『兵藤公美(ひょうどう・くみ)』
    俳優。桐朋学園大学短期大学部専攻科演劇専攻卒業。1996年平田オリザ主宰の劇団青年団に入団。主な青年団の出演作品に『ソウル市民』ソウル市民恋愛二重奏』『東京ノート』『カガクするココロ』がある。客演としては「五反田団」、「サンプル」などに出演。近年では青年団国際交流プロジェクトでフランス劇文学賞大賞を受賞したパスカル・ランベール脚本・演出「愛のおわり」に出演。映画では深田晃司監督作品『歓待』、篠崎誠監督作品『SHARING』に出演。洗足学園音楽大学ミュージカルコース講師、映画美学校アクターズコース講師など演技講師としても活動している。