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♯01不動の兵藤教室 Part.2

—イメージの持ち方/渡し方—

俳優・兵藤公美による俳優養成ワークショップ「不動の兵藤教室」のレポート掲載第1弾。Part.1では、今回のワークショップ受講生である演劇ユニット「情熱のフラミンゴ」主催の島村和秀と俳優Oさんの演劇創作におけるそれぞれの背景を聞いた。Part.2では島村が直面している「俳優の演技を仕上げることが出来ない」という問題に兵藤公美が迫ります。

「俳優の演技を仕上げきれないんです。身も蓋もありませんね…(島村)」

島村:先日、イ・チャンドン監督作品『オアシス』(02)の上映イベントがあって、そこで僕たちの劇団がトークする機会があったんですよ。そこで自分たちは表現者なんだから、ただ喋るだけじゃなくて、自分たちができる表現で、還元していこうぜってことになって。
兵藤:だからこの脚本(島村がワークショップ用に持参した2人芝居のテキスト。)のタイトルは“オアシス”なんですね。
島村:映画の『オアシス』は濃厚なラブストーリーなんですけど、僕たちが発表できる持ち尺は五分っていう制限があったから、男女関係の部分だけを引っ張ってきてライトに描きました。(島村が持参した脚本「オアシス」の内容は、ラーメン屋の行列に並んでいたら偶然昔の彼女と出会ってしまったというもの。5分程度の内容。)
坊薗:これをやったときに課題がでたんだよね。
島村:そうです。僕の課題は俳優の演技を「演技」として完成度の高いものに仕上げきれないというものです。身も蓋もない話ですけど…。俳優をその世界の人にさせられないていうか。まだ素の演技の状態でOKをだしちゃうんですよね。本来、演出というのはひとつの言葉でぱっと俳優をその世界の人として輝かせたりするべきだと思うんですよ。でもその一言がでてこない。
兵藤:それは、やはり演出家としてのボキャブラリってことになると思うんです。ちなみに島村君が言う、役者をその世界の人にさせられないのは「演技でその世界の人になることは無理なんじゃないか」という問いですか?
島村:いや、なれるとは思っています。その世界の人に見える瞬間はあるし、偶然ですけど成立したことはあります。ただそれを意図的に導くことができない。具体的に演出でどこを刺激すれば良いのか、という課題が僕の中であります。

たとえば、五反田団員の大山雄史さんという俳優は、舞台にいても“大山雄史”だったりするじゃないですか?でも、最終的にはその物語の人になっているように感じるんですね。

“その物語の住人に見える”“舞台上で演技をしている人にしか見えない”これは紙一重の問題だと思うんですけど…。僕の場合は世界の住人になるその手前のところまでしか誘導できないんです。
兵藤:なるほど。
島村:このテキストを使ってOさんに演出した時もその問題は浮上してきて。初日の稽古はまず、様子を見たいというのもあって3分の1くらいまで台本を書いていったんです。それでOさんと一緒に役の気持ちを分析しながら、続きの進行だったり、セリフを作っていきました。

その初稽古で、役の行動理由をOさんに伝えたんです。そしたらOさんはその気持ちわからないって言って。それで僕は「あっそうなんだ…。えっじゃぁわかんなかったらできないってこと?」とOさんに聞いたら「うーん、そういうことに近いかな」って。ちょっと煮詰まってしまって。

そしたら、Oさんが「わかった!この人はアイドルだ!それならわかるかもしれない。私はアイドルで、この元彼氏はアイドルになる前の彼氏だと思えばいいんでしょ。」と。
坊薗:自分のイメージできる言葉でしゃべったら相手には伝わんなかったっていうやつ。
兵藤:ディスコミュニケーションだ。
島村:どういう言葉を二人で使って、一致させていけばよかったのか。その件に関しては、Oさんの思うアイドルでいいから、やってみてよということで進めていったんですけど。まず、根本的にそれで良かったのかと…。

他にも設定を共有するときに、この脚本はラーメン屋の行列に並んでいるという設定だったので、物語のロケーションは外なんですよ。だから、《ここには桜並木とかあって、少し肌寒いんだ》とかイメージから伝えていったんですね。
O:そういう島村君から言われたイメージを元に稽古をしてたんですけど、そこで、あんまりうまくいかなくなって。というのも、今回3日間、稽古したんですが、初日は私の家、2日目は多摩川沿い。3日目はカラオケ店でやったんですよ。初日は今言ったように全くしっくりこなくって。でも二日目の河原の稽古では凄く集中できたんですよ。でも3日目カラオケルームでの稽古は全然ダメで、外で練習するほうがいいねって話になって。
坊薗:外の設定だから外の方がやりやすかったてこと?
島村:そうなんですかね。でも実際、上演をする場所は室内じゃないですか!?それだから、そもそも設定をファミレスの待ち合い席に変えようかって話になって。カラオケの向かい合っている感じがファミレスだったらありえるんじゃないかと。そうやって設定を変えてみたらしっくりきたんですよね。結局、本番では最初のラーメン屋の行列に設定を戻しましたけど。
兵藤:だから、たいていの人たちは本番に近い状態をつくって稽古をするでんだよね。本番とあまりにも違う環境で稽古をするときは内容も制限される。関係性だけに特化した稽古になってしまうしね。
島村:そうですよね…。
兵藤:台詞合わせぐらいならいいけどね。だから、あながち、設定を変えて稽古をしたのは、感覚的には間違ってはいなかったと思うのよ。でも、確かにこの問題はイメージのやりどころの話かもね。カラオケ屋にいるのに、外の設定の場合にどうイメージを持ったり与えたりするかっていう。
O:めっちゃ外にいる気もちを再現すればいいんですかね。
坊薗:そこは、気持ちを再現することではなくて、外にいることでその人物たちがどういう状態であるかってことをイメージするんじゃない?!
兵藤:そっちの方だと思う。外にいる気持ちを作るのは無理でしょ。外にイメージを持つのはいい。寒いのをイメージした場合、寒くて辛いという気持ちがあったとして、この“辛いという気持ち”をいきなり再現しようとしても出来ないよね。
坊薗:気持ちだけを再現することを演技というよりも、その気持ちになる行動を起こすことが演技という言い方になるのかしら?あと、外にいることを想像して、言葉で「寒いね〜」とか役者が外であることを説明して演劇するのも違うような気がするけど…。
兵藤:型で見せるような、例えば、歌舞伎とか説明を必要とするジャンルの演劇もあるけどね。でね、この件に関してだけど、聞いている限り、根本的な問題は俳優と演出家のイメージが共有できてないってことだよね。Oさんは外にいたときの気持ちを再現しようとしてたのかも。島村君は外は寒いとかのイメージを与えてはいたけれど、俳優に正確な意図が伝わらなかった。コミュニケーションが取れてなかったということだよね、簡単に言っちゃうと。俳優と演出家の関係において言えばよくあるすれ違いってやつです。
島村:そっか…どうすればよかったんでしょう?
兵藤:そもそもね、俳優ってその場に影響されるっていうのはあるよね。とくにカラオケ屋は稽古場としては極端な場所ではあるからね。だから稽古場のリアリティっていうがあって。イメージを感じようと思っても、所詮、「ここはカラオケだから」ってことになるよね。どんなに外を想像してもそのカラオケ屋の“匂い”とか“空間の狭さ”を直に感じてしまう。だから、設定を変えて稽古をしたというのは、感覚的には間違ってはいないっというのはそいういうこと。

そのカラオケ屋の空間にいる私たちで演技するしかないでしょう?外を想像する必要がないってことではなくて、想像したところで、その俳優がカラオケ屋の匂いとか空間を無視するのはおかしいというか、無理があると思うのね。
島村:そっか。結構難しいことをやろうとしてたんですね。
兵藤:そうかもね。だからね、本来は今日の稽古場の今日の感じでやる。だから、この場合は今日はカラオケ屋の2人でやるしかない。それを無理して外を想像したり、河原でやったあの良い感触を思い出しながらやろうぜってのは難しいですよね。俳優は直接的に触れるものに直に影響を受けるから。

でも、このことは、部屋の中だから外をイメージしなくていいということを言いたいんじゃないよ。イメージは必要です。イメージは必要なんだけど、今回みたいに場所の影響が強すぎる場合は、ハショってもいいというか、ひとまず、しょうがない、と思うの。場所によって見えているものも違うし、触っている、触覚とかも全然違う。とにかく、想像しようがないところに関しては稽古場では稽古場のリアリティで私はやります。その稽古場の触覚の部分などを大事にすることの方が大事。

「イメージというのは、全部、俳優が行動を移せるための必要要素のこと(兵藤)」

島村:なんか恥ずかしい話なんですけど、以前、兵藤さんが坊薗さんにアクティングコーチをしていたときに、「脚本に書かれている意図の実感をもつためにはどうすればよいか」ってことを言ってて。
坊薗:アクティングコーチってなに?
兵藤:アクティングコーチってスポーツっぽいね。
島村:確かにオリンピック強化選手的ですね。でも、本当にそういう言い方あるらしいですよ!
兵藤:え、知ってるよ。知ってるけど…ってことだよね。で、なんでしたっけ?
島村:あ、えーと。その、兵藤さんがアクティングコーチしているときに役者のリアリティを出すために、意識を分散することが大事だと言っていたので、それをまんま、稽古場に応用してみたところがあります。

Oさんに「ここは外の設定だ。外は寒いだろ?ここに桜があるだろう。そしてラーメン屋の匂いがするんだよ。そのイメージをしっかり持って意識を分散させて」みたいなこと言っちゃってて。
兵藤:私がさっきまで言ってたイメージというのは、全部、俳優が行動を移せるための必要要素のことなの。意識を分散するっていうのは、まず、台本の状況や、人物の状態、相手や周りとの関係性、をしっかり理解しておいて、それをイメージして、実動の演技に反映させるってこと。ついでに生理的な状態を目指すとしたら、舞台で起こるいろんなことをキャッチできる状態にする。そうすると周りで起きてることにちゃんと反応することができる。

カラオケ屋での稽古に関しても、例えば、カラオケ屋臭いのをキャッチしながら演技をするのは、生理的状態を目指す訓練にはなるかもね。いつでも生理的状態でいることは、つまり、相手役であれ、小道具であれ、衣装であれ、空間であれ、コミュニケーションが取れる状態でいることに繋がる。だから、稽古を稽古場のリアリティでやるというのはそういうことだと思うの。
坊薗:でも、本当は本番のセットに近い稽古場がベストではある。
兵藤:それはそうだね(笑)。ただ、場所だけの話で言うと、本番の空間でも言えることで。例えば私が前に出演した演劇で、すごく抽象的なセット組みの作品があったの。それは、その抽象的なセットが家になったり外になったりするんだけど、実際はそこを家の中という風にはもちろん考えられない。そもそも外だって言ったって現実は劇場の中だし。
島村:じゃぁどうやって使い分けたんですか。
兵藤:全然、使い分けない。想像しようがないことだとは思うのね。舞台美術とか衣装とか小道具とか、俳優にすごく近い距離のものって、その手触りが“本当”になるじゃん。だから“外”という設定にはなっているけど、「いや、床はリノなんで」っていう。

手触りのリアリティから、そことコンタクトして演技を発生させていくんだよね。例えば、電車に乗っているという状況を説明するときに、ここは電車だから揺れている。それだから私も揺れる。っていうのはパントマイムというか、状況の説明であって演技ではないと思うの。もちろん、俳優が状況を説明をしなくちゃいけない瞬間はありますけどね。

演技はもうちょっと生々しいものだから、今、触っているボコボコしている床の感覚をどう感じているかということが、次の演技にどう反映していくのかということに繋がっていくの。

例えば舞台の上で「こっちの床は冷たいから畳がある場所で寝っころがろう」みたいに舞台上で選択していく。それが直にそこにあるものと関わっていく、つまりコミュニケーションを取っていくことなんだよね。だから、稽古の段階でもその部分を敏感にしておくというのはありだということだね。
坊薗:イメージの話に戻るけど、結局、具体的な外部のイメージは重要度としては低いんだね。
兵藤:全く関係ないわけではないよ。
坊薗:でもね、正直ここまで聞いても“兵藤さんが言ってるイメージ”と“島村君がOさんに与えたイメージ”の違いがわからない。
島村:実は…僕もです。

「根本的に人間みんな一緒だ、と俳優は考えた方がいい(兵藤)」

坊薗:イメージは島村君もしてるじゃない。桜がある、外は寒い、とか。分からないのは、そのイメージという言葉がごちゃごちゃになってるということ。具体的にはどの部分のイメージを伝えればよかったのかな。
兵藤:そもそも、始めの段階で、外部のイメージにこだわらなくてよかった。まず、この脚本で始めにイメージする必要があることはこの脚本に描かれている2人の人物の関係性だよね。どういう関係の2人なのかっていうイメージ。
島村:だから、ダクトから漏れるラーメン屋の匂いとか、桜があるとかそれを先に考えるんじゃないってことなんですね。
兵藤:もう一度いいます。あのね、それはそんなに重要じゃない。それは私が思う現代的な演劇では、ってことにはなりますが。
島村:お腹がすいているとかはどうですか?
兵藤:お腹はすいているはわりと関係あるかな。そこを意識していると俳優の演技の露出が変わるものだから。さっき重要ではないとは言ったけど、外部のイメージもしていいんだよ。匂いとかはあとで使える情報ではあるから。
坊薗:はい!(手をあげて)「情緒溢れる人」だったら?人物のイメージをすごく情緒あふれる人にして、イメージを考えた場合に、例えば、「外にいる、桜が咲いてる。その桜の花びらが一枚落ちたのを店に入る前にみた、情緒を感じた」っていう感傷に浸った直後に誰かに会うのだったら、第一声、つまり行為に直接関わってくるんじゃない?
兵藤:それはね、私が言ってる演技術から言うとね、一番やっちゃいけない役づくりですね。ていうか、それやったとしてお客さんに伝わるんですかね?
全員:(笑)
兵藤:登場して挨拶というシーンで、桜をみてうっとりした感じを出されても、相手役はその前の状況は知らないわけだから、どうした?と言わざるを得ない。だから通常の演劇だとなしじゃない?まずね、前提として「情緒が溢れる人」というのがあり得ないんですよ。人間だから。
坊薗:それはキャラ設定になるってこと?
兵藤:そう。言い方としてはキャラを演じるってことになる。
島村:確かに現実の生活で情緒が溢れるゆえに発言している人をみるとすげぇ嘘っぽいなと思います。日常でもたまにそういう人いますけど。ま、僕もそのひとりなんですけど。
兵藤:それが脚本に書いてあったとしても、脚本を読んだ段階で俳優が情緒あふれる役だって決めつけないほうがいい。そこが落とし穴になる。それを決めつけることで、その役の全てが、「情緒が溢れる人」になっちゃうわけよ。性格を1つに決めつけない方がいいんです。

前提として、人間はまず、見た目の圧倒的な個性があるじゃない。で、叩かれれば、誰だって痛いし、褒められれば嬉しいし、悪口言われたら悲しいし辛いし、と。だいたいみんな感じることは一緒なんです。

ちょっと優しい、ちょっといじわる、みたいな人格としての幅というか差はあれど、人間が感じている感覚は誰もそんなに変わらないと思うの。
島村:受ける気持ちがですか?
兵藤:受ける気持ちもだけど、ヒトそのものが。この人は情緒あふれる人だよねって人はあんまりいないと思うの。坊薗はメンタル強い人。兵藤さんはひょうきんな人。そういう風に性格を貼り付けていきたくなるっていうのはわかるけどね。

でも根本的に人間みんな一緒だ、と俳優は考えた方がいいって私は思う。それを踏まえてあえて、記号化しないギリギリで演技をするというのもセンスだと思う。キャラ設定とかキャラをやろうと俳優が決めた時点でちょっと話がずれてっちゃう。本当はキャラなんて考えなくていいんです。

「演出というのは役者が行動や行為を起こせるようなイメージを言葉で伝えて共有していくことなんだ!(島村)」

兵藤:じゃあ、この脚本(島村が持参したテキスト)の最初のセリフ『やぁ』のときの関係性からちょっと考えてみようか。元恋人同士の二人が数年後ラーメン屋の行列に並んだら偶然に前後になってしまった、という設定だよね。久しぶりだし、気まずさがあって、こころの中を読み取られたくないという関係があると仮にイメージするね。

そこで、気まずさを誤魔化すために星を見る演技になったとするじゃん。これは“きまずい”という意図を表現しようとした行為でそうなった。
島村:なんかそれジブリっぽいですね?
兵藤:ジブリね。『おもひでぽろぽろ』。
坊薗:ギバちゃんね?
島村:ギバちゃんって誰ですか?
兵藤:うん、でさ話戻るけど、でもこれがはじめから情緒が溢れる人だから星を見るという風に俳優が思って演じた場合は多分、違う表現になってしまう。
坊薗:行為をするためのイメージの出発点が違う。
兵藤:星をみる作業としては同じだとしても、気まずさがあるから、困って、どうしようもなくて星をみる、とかものすごく動機づけがはっきりしてたりすると、演技的にはリアリティの方に行くと思う。
坊薗:たしかに情緒溢れる人だと設定して星を見上げているのは、相手役は困りますね。見る側としても情報が多いというか。
兵藤:でも演出家でさえ「この役は朗らかな人なんだよ」とかキャラ設定のこととかを言っちゃう人がいるの。昔ね、ある俳優が私に質問してきて「私が演じる人は明るい人なんですけど、この落ち込むところがなんかやりづらいんですよね。明るい人だから、落ち込むってことないと思うんですよね」って。いや、あるでしょって(笑)。私は人間ってすごく多面的だと思うのね。
島村:なるほど。
兵藤:この脚本の場合、イメージする箇所としては一体この2人の関係はなんなのか、ちょっと前にはどんな関係だったのか、相手に対してどういう風に思っているのか。この出来事に対してどのくらいの興味があって、それぞれの距離間があるのか。そういうことを台本から読み取る。
O:初見でそれをするんですか。
兵藤:私の場合は流れを知るために最初はざぁっと脚本を読みます。2回目読むときに関係性、ここは何のエピソードなのかとかを読み取っていく。

そのあとは相手役とセリフをやりとりする。そのときになってやっと何かをはじめることが出来る。それをただ続けてれば自ずとキャラがでてくる。つまり相手との状況とか関係性のイメージをしっかりもっておけば、キャラは自然に輪郭をもつようになるんです。

台本の読み取りの段階で解釈がずれない限り役者の個性に関しては大きな違いはでないんですけど、それを、坊薗さんがやるのとOさんが同じ意図でやったとしても全然違う演技の露出になっていくと思うのね。それが個性とか俳優の魅力になる。
坊薗:はい!(手をあげて) 何をイメージして、どこをイメージしなくていいかっていうジャッジができるようになるのは経験ですか。私もそうだけど、物理的なイメージをしようとしてしまう。《テレビを観ている》という設定だけあったとして、どういう状態で見ているのかを考えたときに、「外は薄暗い。少し寒くなってきた。だから横になって、布団をかぶりながらを観ることにする」みたいなことを考えてしまう。

でもその場合、『少し寒い、薄暗くなってきた』ってことは外部のイメージでしょ。そこって島村君の『桜が咲いている、外は寒い』っていうイメージとの差はなんなのだろう?
兵藤:多分、坊薗さんがやった作業も結果、外部をイメージをする必要があったからだと思います。基本的に私が言っているのは、自分がこの台本の中で行為として移すために必要なイメージって感じかな。
坊薗:必要なイメージというのは、イメージすることで行動や動作に影響を与えることなんだね。この脚本の場合外だとイメージして、影響がでることといえば、《会話するときに人に聞かせないようにする》とかかな?でもそこに桜があるとイメージしたからといって、直接的には行動に影響は与えない。
兵藤:そう。桜があっても直接的な行為にはつながらないから。もう一度いいます。重要なのは行為に移すためのイメージをすること。
坊薗:では、島村くんがOさんに渡した“ラーメンの匂い”というイメージも、最初に設定しておくんじゃなくて、大事な話をしているときにラーメンの匂いがすることによって、そっちに気がそれる要因になってもいい。それはそのイメージをプラスさせると面白いよねっていう意味合いでイメージするのはありなのかしら。
兵藤:ありだと思います。負荷をかけると露出が変わってくるから。でもそれは演出的な話だけど。
坊薗:恥ずかしながら、違いがやっとわかりました。
島村:そっか!演出というのは役者が行動や行為を起こせるようなイメージを言葉で伝えて共有していくことなんですね。
兵藤:そうですね、ただね…それは一番スタンダードな演出のありかたであって…。

—演技はあくまで“嘘っこ”だと考えていい!?—

島村:それじゃだめなんですか!?
兵藤:いや、だめじゃないんだけど、今、私が言った方法って、わりときちんと演技をつくる方法なんですよね。
島村:はい。
兵藤:ちゃんと台本を読んで、関係性を読み取ってみたいな。ちゃんとイメージすることで役が生きるんだみたいな。そこまでの作業はある程度はした方がいいんだけど…。
島村:あっ僕そのことを知れて酔っていました。すでに。
兵藤:それでいいのよ。それはそうなんだけど、ただ、そうなりすぎると、“自分の本当主義”みたいになっちゃう気がして、行き過ぎてしまう。それは違うなと。
島村:どういうことですか?
兵藤:演技というのはあくまで嘘っこだと私は思っています。
島村 / O:嘘っこ…!?
なんともわざとらしいリアクションをとってしまったところでPart.2終了!次回は完結編。「演技は嘘っこで良い」という兵藤さんの真意とは?!Oさんの問題意識へと続く!
採録:坊薗初菜
写真:島村和秀
構成:坊薗初菜、島村和秀、兵藤公美
『不動の兵藤教室』
俳優・兵藤公美(青年団)が主催する少人数制の俳優ワークショップ。それぞれ参加した俳優の形に合わせた「演技術」の養成を行う。演技上の悩み解決から、台本を使った演技指導、新たな演技方法の模索など、様々なアプローチで俳優の自立をサポートする。『不動の兵藤教室』の内容は「そことここ」の特別企画として、不定期に連載。
講師:兵藤公美
サポート・解説:坊薗初菜
問い合わせ先:hudou.hyoudou@gmail.com
  • 『兵藤公美(ひょうどう・くみ)』
    俳優。桐朋学園大学短期大学部専攻科演劇専攻卒業。1996年平田オリザ主宰の劇団青年団に入団。主な青年団の出演作品に『ソウル市民』ソウル市民恋愛二重奏』『東京ノート』『カガクするココロ』がある。客演としては「五反田団」、「サンプル」などに出演。近年では青年団国際交流プロジェクトでフランス劇文学賞大賞を受賞したパスカル・ランベール脚本・演出「愛のおわり」に出演。映画では深田晃司監督作品『歓待』、篠崎誠監督作品『SHARING』に出演。洗足学園音楽大学ミュージカルコース講師、映画美学校アクターズコース講師など演技講師としても活動している。