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映画の未来をいち早く
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♯35「映画と私」舩橋淳(映画監督)

「映画とあなた」のあいだにある物語を知りたい。幼少期の記憶から映画との現在まで。

「勉強は嫌だったので、映画好きの友達と格安の映画館に通っていました」

映画の監督をしています。直近ですと、『フタバから遠く離れて 第二部』という作品が11月15日からポレポレ東中野ほか、全国で劇場公開となります。
幼い頃の映画についての記憶は、どの作品を見ていたのか言えるほどではないんですが、父親がTVで西部劇を見ていたなというのが、おぼろげながらあります。映画を意識的に見るようになったのは高校生になってからです。学校が進学校で、テニス部だったんですが、高校2年生の6月位に部活動を禁止されたんです。けれど勉強は嫌だったので、帰り道が一緒の文科系で映画好きの友達がいて、彼と一緒に映画館に寄っては見るという事を繰り返していました。当時、大阪の西梅田に、「大毎地下劇場」という700円で2本映画を見られる、レンタルビデオ級に格安な映画館があったんです。地下にある本当に小さな劇場なんですが、そこではゴダールやサム・ペキンパー、成瀬巳喜男などの特集上映がおこなわれていました。香港ノワールの特集もありましたね、チョウ・ユンファが出演している『男たちの挽歌』(1986年)などを上映していました。それと、「大毎地下2」という劇場もあって、そこは単なる公民館みたいな場所だったんですが、パイプ椅子を並べて、16ミリフィルムでの上映をしていました。こちらは3本で500円という破格な値段で毎日上映していて、僕はそこでもよく見ていました。小津安二郎やサミュエル・フラーの作品も上映していましたね。

「ニューヨークの雨の湿った道路とか、そこでむさ苦しい男たちががなり立てているような世界」

その頃は、スピルバーグや「ヌーヴェルヴァーグ」の面々、ベルナルド・ベルトルッチなどの作品を見ていました。やはり、「イタリア・ネオリアリズモ」、「ヌーヴェルヴァーグ」は凄いなあと思っていましたね。同時に日本映画黄金期の、成瀬や小津作品も見ていました。溝口健二はまだ見ていませんでしたね。黒澤明もちょっとは見ていたんですが、最初『七人の侍』で乗れなかったんです。みんな凄い凄いって言うけど、いや、成瀬の方が凄いんじゃないかって思っていましたね。それと、シドニー・ルメットも好きでした。ニューヨークを舞台にした刑事ものとかたくさんやっていましたけども、その頃自分が将来ニューヨークに行くなんて事は考えもしませんでした。雨で湿った道路や、そこでむさ苦しい男たちががなり立てているような世界に惹かれて、こんな映画を撮りたいなと思いながら見ていましたね。

「キャメラの後ろで演出を考えている人がいる」

サミュエル・フラーの『ホワイト・ドッグ』(1982)を見て、映画というものには演出が存在するんだなと気付いたんです。『ジョーズ』も同時期に見たんですが、『ホワイト・ドッグ』っていうのは白い犬が人を襲うっていう話なんですけど、めっちゃくちゃ怖いんですね。これ、『ジョーズ』よりも凄いと思ったんです。なぜかというと、『ジョーズ』は最初から怖いというのが分かるじゃないですか? なんてったってサメですからね。犬も怖いかもしれないけど、サメほど怖くない訳ですよ。でも、その映画を見ていると本当に犬に殺されると思ってしまう訳です。本当に怖くて、その映画を見て映画というものは単にスターが出ているというだけでなく、どうやって怖くしてやろうかとか、ショットを構築して、こうやって怖くしてやろうというふうに、キャメラの後ろで演出を考えている人がいるんだなっていう事に思いを馳せ始めたんです。映画には監督がいるっていう事を意識し始めた一本なんですね。それまでは、映画に監督がいるなんて思っていなくて、面白いとか面白くないくらいしか分かっていなかったんです。チョウ・ユンファの『男たちの挽歌』では、拳銃がなぜか色んな所に隠されていて、そんな訳ないだろって思うほどなんですが(笑)、そういう隠し方もやっぱり演出家が考えている訳ですよね。そういうところから、演出比較をしはじめる訳です。最初はあれよりこっちの方が面白かったくらいのレベルだったのが、段々と、このイタリア映画とこの中国映画で両方キスシーンがあるけれど、こっちのキスシーンの方が上手く描けているなとか、まったく関係ない映画を結びつけて演出について分析するような目線が出てきて、そういった映画の見方が面白く思いはじめたんです。

「現実逃避の欲から、留学する事を決めたんです」

大学は東京大学の教養学部に進学し、表象文化論を専攻しました。芸術批評一般を扱うところで、僕の専門は映画批評でした。教授の蓮實重彦さんには色々なことを教わりましたね。ちなみにその頃は映画を撮る事を職業にしようなどとは思っていませんでした。いま、吉田喜重監督との対談を月一回おこなわせて頂いているんですが、そこでもそういった話になって、吉田監督は食うために映画監督になったとはっきりおっしゃっているんですね。戦争が終わって、大学を卒業して、そのまま大学に残って論文を書いたり、研究のための執筆をしたいという欲もあったようですが、やはり食べていかなきゃならないということで、松竹を受けざるを得なかったという事情があったようです。僕の方は、大学2年、3年と周りが就職を考える時期に社会に出たくないという思いが大きくてですね、大学院に行くとか留学するのはどうだと考えて、働き出すのを少しでも伸ばしたいという現実逃避の欲から、留学する事を決めたんです。
大学時代に8ミリフィルムを回したりはしていたんですよ。ただ、その頃は遊びでやっていた程度だったんです。大学では身の回りに芸術の各分野で優秀な批評家たちがたくさんいまして、彼らとは今でも仲良くしているんですが、研究者として素晴らしく優秀な人達がちょうど集まった時期で、映画批評に関してもそういった人材が何人もいた中で、これは自分には無理だなという事を痛感していました。僕はどちらかというと、大人数をまとめて何かをつくり出すということが得意で、それはサッカーをやっていたり、チームスポーツに馴染んでいたというのもあったと思うんですが、ですから、筆で勝負しないでつくる方で勝負した方がいいんじゃないかと思ったわけです。ニューヨークにはつくるってことをやってみるために渡ったんですね。でも、「映画をつくる」という枠に入りながらも、それでもまだ自分が映画監督になるなんて大それた事はないだろうって思いはあったんです。アシスタントディレクターや脚本家や、その関連の職に就ければと何となく思っていましたが、やはりニューヨークで生活する中で少しずつ映画監督として生きていきたいと思うようになっていったという感じですね。

「映画を撮っていくための次の展開」

ニューヨークでは、今度は「つくる」という事に関して打ちのめされます。上手い人がたくさんいてですね、もしかしたら道を間違えたんじゃないかって思う事もありました。そこでは、二年経った後に「ディレクティング」をやるのか、「スクリプトライティング」という、いわゆる脚本をやるのか、もしくはプロデューサーをやるのか、撮影、または音声をやるのか、などを決めなければいけないんです。自分がなりたい職業を在学中に決めるというのがあって、非常にアメリカは実践的ですよね。僕は「ディレクティング」を選び、『echoes エコーズ』(2001年)という72分の作品を16ミリ白黒で撮りました。普通は学校の発表会が学年末にあって、そこで上映して終わりなんです。でも僕の作品は長編だったので映画館でかけてくれるという所がニューヨークで出てきたり、映画祭にも色々行って、フランスのアノネー国際映画祭というところで賞を頂いて、それがきっかけで日本で公開してくれる事になってというように、少しずつ広がっていきました。映画を撮っていくための次の展開へとつながって行ったんです。

「ジャーナリズムでは書き切れない故郷の価値」

これから第二部が公開される『フタバから遠く離れて』を撮り始めたきっかけはですね、『桜並木の満開の下に』(2013年)をクランクインする三週間前に3・11の震災が起きたんですが、そのロケ地が日立市を予定していたんです。日立市は津波の影響がありましたから、市内のインフラが駄目になってしまい、映画は中止になったんです。僕は3ヶ月間仕事が無くなってですね、やる事がなくて毎日震災のニュースをTVで見ていました。それで知ったことに、双葉町が福島県の中で、唯一県外までと、もっとも遠くまで避難した町だということがありました。皆が3キロ、10キロ、20キロと避難している中、あそこの町だけ250キロ逃げている。僕はあの時、双葉町の人達の行動が一番正しいと思ったんです。そのニュースを見た2、3日後に、キャメラは持たずに避難してきた人達の話を聞きに行きました。そして、撮影をし始めたのが翌々日とかでしたね。ですから、『フタバから遠く離れて』の撮影期間は2011年の4月から今までという感じです。『桜並木の満開の下に』はその後無事に撮影できたのですが、そうした期間も『フタバから遠く離れて』の撮影はずっと継続していました。最近は、映画の公開に合わせて発行する「フタバから遠く離れてⅡ―― 原発事故の町からみた日本社会」という本の執筆などもあり、頻繁には行けていないのですが、時々は撮影に行っています。ですから、「フタバから遠く離れて 第三部」というのはありますね。
この『フタバから遠く離れて』という映画は、何ミリシーベルトだとか、何マイクロシーベルトだとか、被曝の事を扱うのではなくて、一番大切なこととして、この人達は故郷を奪われた人達であるということ、そこに対して想像力を働かせてほしいと思っているんです。もう中間貯蔵施設というものは出来てしまったものだ、あの人達は帰れないのは当たり前でしょ、という向きありますが、40年という原発の稼働していた期間のためにそれよりもずっと長い、1000年以上の歴史をもつ双葉町の未来が壊されてしまった、そういった人達の気持ちを考えてみたことがあるか? それを想像してほしいということなんですね。そう考えた時に、故郷が単に無くなるっていう事だけじゃないんです。金目でもない。ジャーナリズムでは書き切れない「故郷の価値」っていうものを、この映画を見て感じていただければと思っています。
◆舩橋淳監督作品『フタバから遠く離れて 第二部』
11月15日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次公開!
◆劇場
ポレポレ東中野
http://www.mmjp.or.jp/pole2/
◆チケット
特別鑑賞券
¥1400
アプリ特別鑑賞券
¥1400
当日券
一般:¥1700/大・専:¥1400/シニア:¥1200/高校生以下・障害者:1000円
■スグチケ(アプリ特別鑑賞券)
カンタン便利な特典付き映画チケット購入アプリ(App Store限定)
¥1400
購入特典
舩橋淳監督の過去作品『Talkie & Silence』のストリーミング視聴が可能となるURLを配布!
※特典はチケット購入後に劇場に行くと、自動的に受信することができます。
http://sugu-ticket.neopa.jp/
◆公式ウェブサイト
http://nuclearnation.jp/jp/part2/

フタバから遠く離れて 第二部 予告編 from Atsushi Funahashi on Vimeo.

http://sugu-ticket.neopa.jp/
聞き手・構成・写真 :岡本英之
    採録・構成 :川邊崇広
『フタバから遠く離れて 第二部』
2014/日本/114分/HD/カラー

©ドキュメンタリージャパン/ビックリバーフィルムズ

監督:舩橋淳 テーマ音楽:坂本龍一[for futaba]

撮影:舩橋淳、山崎裕 音楽:鈴木治行

プロデューサー:橋本佳子

配給:Playtime 宣伝:佐々木瑠郁

原発事故直後、目に見えぬ放射能から身を守ろうと、町民1400人を引き連れて福島県双葉町を飛び出した井戸川克隆町長。埼玉県旧騎西高校で避難生活を送りながら、補償を求めて東電や国を相手に闘ってきたが、出口は見いだせなかった。2013年1月、町議会から不信任案を突き付けられ辞任。新たに就任した伊澤史朗町長は、「福島県内に戻ることこそ、復興の第一歩」と考え、町役場を福島県いわき市に移転。後に、旧騎西高校の閉鎖も発表し、双葉町は新たな転換点を迎える。
  • 『舩橋淳(ふなはし・あつし)』
    1974年大阪生まれ。東京大学教養学部表象文化論分科卒業後、ニューヨークで映画を学ぶ。デビュー作『echoes』(2001年)が、「アノネー国際映画祭」(仏)で審査員特別賞と観客賞を受賞。第二作『BIG RIVER』(2006年、主演:オダギリジョー)は、「ベルリン国際映画祭」「釜山国際映画祭」でプレミア上映。東日本大震災で町全体が避難を強いられた、福島県双葉町とその住民を長期に渡って取材したドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』(2012年)は国内外の映画祭で上映。2012年キネマ旬報ベストテン第7位。著書「フタバから遠く離れてⅡ―― 原発事故の町からみた日本社会」も出版される。劇映画『桜並木の満開の下に』では被災地を舞台に物語を展開し、ジャンルを越えて、震災以降の社会をいかに生きるかという問題にアプローチしている。最近では、ドキュメンタリー番組「小津安二郎・没後50年 隠された視線」、そして最新作『フタバから遠く離れて 第二部』が公開となる。