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♯20 『映画と私』佐藤央(映画監督)

ふたつの選択肢

映画の監督をしています。もともと出身が大阪で高校までは大阪にいたんですが、大学への入学を期に上京しました。現在は東京から大阪に拠点を戻して活動しています。大学を卒業してからは映画美学校のフィクションコース(第6期)に通い、映画を志して卒業という流れだったんですが、映画学校を出たあとって大雑把に言ってふたつの道があるわけです。

ひとつは現場に入る、監督志望であるなら演出部ですね。もうひとつはバイトをしながら自主制作で映画を撮る、そのふたつの選択肢があるわけです。僕は美学校で修了制作を監督するチャンスを得て『女たち』(05)という作品を発表しましたが、それでいきなり映画監督の仕事がくるわけじゃない。そういった時にたまたま演出部の仕事の話が来たんです。

それは美学校在学中から手伝っていた成瀬巳喜男(なるせ・みきお)の生誕100年記念ドキュメンタリーの現場で知り合った方からのご指名でして、「佐藤くんにやってほしい」ということだったんですが、正直迷いました。今考えるとたんに日和ってるだけなんですが(笑)、演出部で現場を回るのはどう考えても自分には向いていないんじゃないかという気持ちがあって、それでも、誘われた手前やらなければいけないのではという葛藤があった。まあ、若き日の切実な悩みです。

どうしようかなと考えていたときに、ちょうど僕が卒業した直後くらいに、成瀬巳喜男監督のキャメラマンをしていた玉井正夫(たまい・まさお)さんのドキュメンタリーを芦澤明子(あしざわ・あきこ)キャメラマンと2人で制作していたこともあって(『キャメラマン 玉井正夫』(05))、助監督の話が来てるんですと、芦澤さんに相談したんです。そうしたら、「ちょっと来なさい」って居酒屋に連れていかれて、でどうなのって(笑)。知人からの指名でやってほしいということだし、行った方がいいんですかねー、んー…、みたいな相談だったのですが、「あなたは、立派な映画を撮ってるんだからそれを看板にして頑張りなさい」と背中を押して貰って。

それで芦澤さんがそう言ってくれるんだからということで、胸はってバイトをしながら映画を撮るチャンスを伺うという茨の道へと向かったわけです(笑)。結果的には、僕はそれで良かったと思っていて、そういう意味では芦澤さんは僕の恩人にあたるわけです。

『MISSING』にはひとつ自分の映画観がしっかりとでている

その後は美学校在学中からお世話になっていた永田町にある国立国会図書館で週5日のバイトをしながら、映画を撮る機会を伺っていました。そうして修了制作の『女たち』と初めて監督料をいただいて撮った『キャメラマン 玉井正夫』という2本の映画を撮り、2006年頃でしたか、オムニバス映画『夢十夜 海賊版』の一本を撮りませんかという話が来ました(のちに「不安」(07)として結実)。

これは枠だけあってあとは制作者に丸投げという、今に至る自主映画街道の王道的な企画でしたが、長い目で見れば自分に対する投資になるなと判断して、自分で借金をして現場費をまかないつつ制作をしました。ちなみに、その時同じオムニバスを撮った同士の一人が後に『携帯彼氏』を撮ることになる船曳真珠さんです。

その後、美学校の先輩である大野敦子さんの紹介で『コンナオトナノオンナノコ』(07)という映画のメイキングに参加することになるんですが、もともと互いにジャズ好きという接点からか、この映画の監督であった冨永昌敬さんと現場を通して急速に仲良くなりまして、現場が終わった後も当時冨永さんが働いていた四谷のジャズ喫茶なんかでよく遊ぶようになったわけです。で、「不安」を見てくれた冨永さんから「今度『シャーリー・テンプル・ジャポン』の続編を撮ることになったんだけど「不安」みたいに撮ってくれよ」とお鉢が回って来たわけです。

当時、冨永さんはかなり「不安」のことを気に入ってくれていたようで「シャーリーの好色人生」は冨永さんが初稿を上げてくれたのですが、「不安」のことを念頭に入れてホンを書いてくれてるな、という感じが多いにしたものです。ともかく結果として、『シャーリーの好色人生と転落人生』(2008年/監督:佐藤央(「シャーリーの好色人生」)、冨永昌敬(「シャーリーの転落人生」))は劇場で公開されて、DVDにもなり、評判も上々でした。

その後、いくつか低予算ながらも商業映画のお話はあったのですが、これが自分の怠惰なども含めなかなか上手く行くものがあらずな状況でしたので、このままでは腕が鈍ると腹を据えまして、2009、10年辺りは完全に自主映画的なスタンスで映画を撮るようになりました。そうなると、まあみなさん一緒だと思いますが仕事ができなくなるわけです(笑)。

当時の僕は中途半端なスタンスで生きていたから、あまりバイトもしていなくて、かと言って監督業の収入もほとんどない。まあそれでも金銭的なことはだましだましやりながら、この間2年ほどの間に5〜6本の映画を珍品から失敗作、そして腰を据えたものまで含め撮ったわけですが、そういった時期に3.11が起こったわけです。その直後くらいかな、自分で閉口するほど、マジ生活やばい、仕事がないって時期に突入しまして、もろもろ総合的に考えて、じゃあこのタイミングで一回大阪に戻るかと決断をしたんです。

東京にしがみついて、映画にしがみついてやっていても今の自分の状況だとどこにいようがあんま変わんねーかなって(笑)。今から思うと視野が狭くなっていたんですね、いっぱいいっぱいで。これは語弊があるんですが、様々な可能性はあるにせよ、でも、しがみつくようになったらおしまいだなと。今ではそう思います。

実は3.11の時にはもう『MISSING』は撮り終えていたんです。とても小さな規模の現場ではありましたけど、この作品でひとつ自分の映画観がしっかりとでたなという達成感はありました。この制作規模でこれだけの内容と形式を持った映画はなかなか作れないだろうって。その達成感は大阪に戻る決断ができたひとつの要因だと思います。

物事を別な角度から見てみたいと思うようになった

最初の映画体験は、世代的に『ET』や『スターウォーズ -ジェダイの復讐-』、『グレムリン』や『ナチュラル』辺りになるのかな。父親に映画館に連れて行ってもらった記憶がありますが、それが原体験となって映画を志したということはないと思います。父親はかなりの映画好きでした。普通にリチャード・フライシャーならこれが良いとか、ロベール・ブレッソンは封切りで見てるとか。父方のおばあちゃんも映画好きで、「ジョン・フォードで一番いいのは『幌馬車』やねー」「うそ、しぶい!すげー!」みたいな調子で晩年、僕が映画を作りたいなと思うようになってからはちょいちょい話を聞いたりしていました。

僕がそういう映画の良さを分かり始めるのは大学で上京後、集中的に映画を見始めてからで、10代の頃から父や祖母が語っていたことを理解できていたわけではありません。そもそも僕は大学に行くまでは音楽ばっかりやっていたんです。中学生の頃からギターを弾いていました。そもそも上京したのは音楽がやりたかったからです。実際バンドも組んだんですが、それが思ったように上手くいかなくって、いきなり低い壁にぶち当たりました(笑)。

そのタイミングですかね、物事を別な角度から見てみたいと思うようになったんです。それまで聞いてこなかった音楽を聞いてみたり、本をあまり読んでいませんでしたから読んでみたり。映画も高校生の頃は女の子とブラッド・ピット主演の映画を見に行ったりする程度だったので、そうじゃない映画も見てみたいと思うようになったわけです。自分の知っている価値観以外の価値観も知らないとまずいぞ、とてもじゃないけど社会で生き残れねえぞ、と。危機感を感じたわけです。

小さな頃から映画館に連れて行ってもらっていたという事実はあるにせよ、正直自分は上京するまで映画は特別に好きというわけじゃなくて、好きなカルチャーのひとつくらいに思っていたんです。でも、ここが僕の僕らしいところですが(笑)、いきなり正面切って小津安二郎やジャン・リュック・ゴダールをパッと見てしまったわけです。そしたら、面白いっ!て、思ってしまいました。

それからは、例えば蓮實重彦さんの本を読み始めたり、柄谷行人さんの影響を強く受けたりで、とにかく色々とある可能性のなかから『映画』を意識するようになった。よくある話ですが、大学の2年くらいからは学校にも行かず映画館に通うみたいな時期に一気に突入していきました。僕が通っていたのは法政大学の経済学部だったんですが、映画研究部とかに興味はなくて、つまり自分で撮る気はなかったんです。というより、映画が撮れるという発想がなかった。

ただやっぱり映画を見てると自分も撮ってみたいという思いを抱くようになるんです。その度に「いやいや、そんな簡単に映画は撮っちゃいけない。うかつに映画を撮りたいなんて思ってしまったら最後、食いっぱぐれてしまうぞ」と、葛藤を抱きつつ見るだけにしていたんです。まあ、実際その後、食いっぱぐれたわけですが(笑)。

それで悶々としながらも月日は流れ、就職活動はまったくしていなかったので、大学院に行って映画の研究者を目指そうと考えました。法政の大学院には映画を学ぶ学科がありませんでしたから、他大学を受験することになるんですが、そうすると当然勉強をしなくちゃいけない。でも僕には語学を勉強する才能が全くなかったんです。思うに、語学を勉強するってことは規則正しい生活をして、毎日同じことの反復を積み重ねるように勉強をしなくちゃダメなんです。僕は10歳の頃から生活が不規則だったのでそれがまったくダメで、それで結局大学を卒業してから一年間プラプラしてたんです。大学院浪人という形で。

そんな調子だからやっぱり受験なんて無理だなって思いまして、いよいよどうしようかとなった矢先に、家のポストに映画美学校の生徒募集のチラシが入ってまして、パッと見て「これじゃん」って(笑)。募集要項には講師として万田邦敏監督の名前がありました。ちょうどその年の春だったかに万田監督の『Unloved』を見て「日本の商業映画でこんな映画を撮ってる人がいるんだ!」と感銘を受けた直後だったので、これはもうここで我慢しちゃいけないと思い入学を決意しました。渡りに船とはこのことか、と(笑)。自分のなかで封印してた気持ちを一気に開放させたというか、もういいじゃん、チャレンジしてみようぜ、もう後もないしって思ったんです。24才の時でした。

映画美学校では、僕にとっての盟友といっていい撮影の四宮秀俊くんや『MISSING』で脚本を書いてもらった小出豊さんら、今でも志をともにする仲間と出会えたことが何より大きかったです。

『シャーリーの好色人生』と『MISSING』では、演出の仕方は全く違う

自分の方向性を決定付けた映画というのは、あんまり言いたくないんですけど…、残念ながらゴダールの『映画史』なんです(笑)。『映画史』がまとめて一般公開されたのが21才の時で、前の晩は寝られないくらい楽しみにしていました。実際に『映画史』を見て「やるぞ!」となったわけではありませんでしたが、自分にとってインパクトは大きかったです。

他ですと、僕はクラシック映画がすごく好きで、特に30〜50年代のスタジオで撮られた日本、アメリカ、イタリア映画の影響は強く受けていると思います。つまりジャンル映画です。当時、東宝の映画はVHSでレンタルがされておらず、成瀬巳喜男の映画を見るには映画館をかけずり廻らないと見られない状況でしたから、そういった意味で僕がより時間とお金をかけて見た映画というのは成瀬巳喜男の作品になります。

2004年頃ですかね、芦澤さんが成瀬巳喜男生誕100年のドキュメンタリー映画を制作していて、僕は『う・み・め』という万田さんが監督した美学校の制作実習作品の現場で芦澤さんと知り合っていましたが、その打ち上げの際に芦澤さんに成瀬巳喜男の話をしたら、「あなたどの作品が好きなの」って話になって、いろいろ楽しくお話ししていたら、「あなた良く知ってるわね、手伝いなさいよ」って(笑)。それでドキュメンタリーの制作チームに入れてもらえたんですが、そのことは僕にとってとても大きかったと思います。

後期の成瀬映画を支えた現場の方々に実際にお話を伺う機会があるわけで、これが本当に面白い。例えば照明部だった方にお話を伺うと、これは有名な話ですけど、成瀬組はカット数が多く、1カットを撮るのに費やす照明の数も多い。当然カットが変わる度に多数の照明を動かしていかないといけない。にも関わらず撮影は毎日9時〜17時、それが3~4週間でキッチリ終わる。玉井さんの奥さんに話を伺うと、撮影中でも夜の7時には家で晩酌をしていたと。

今ではとても考えられません。なぜそんなことができるんですか?って聞くと、「なんでってそりゃ君、毎日やってるからだよ」って(笑)。毎日同じ場所で同じスタッフがやってるから、そりゃそうなんだよって言われて。それを聞いて、ああ、それがスタジオの力っていうのか、培ってきたものの力なんだなってすごく思ったんです。あの複雑な現場をいともたやすくこなしているかのように見せてしまっている。けれど、その当時の僕はそういったことは現代においても不可能ではないんだとも考えました。

どうしてかというと、それは芦澤明子というキャメラマンと一緒に仕事をしていたからです。芦澤さんはスタジオが解体され、フリーランスのスタッフによって映画の現場が制作されるようになった、時代の結節点みたいなところで様々な人たちと仕事をされてきた方だということが大きかったのですが、今考えてみれば芦澤さんにおんぶにだっこの甘々な考え方だと思うところはあります。

そういえば今思い出したけど、昔、スタジオ時代の映画を今の形で再現することは可能だとある雑誌で語ったところ、酔っぱらった青山真治さんに怒られたこともありました(笑)。そんなもん、できりゃ誰も苦労しねぇんだ、って。ほんとそうですよね。と今なら思います。

映画を作るモチベーションは根本では変わりません。ただ『シャーリーの好色人生』(08)と『MISSING』(11)では、演出の仕方は全く違うと思います。例えばこれはカメラの演出のことなんですが、『シャーリー』ではカメラを1カットたりとも同じポジションに戻さないようにしていました。ワンショット、ワンショット、カメラポジションを変えながら芝居をつなげていき、全体を通して芝居のひとつのトーンを作ったわけです。これは成瀬やマキノ雅弘など、日本映画のある種伝統的な撮り方だとも言えます。

『MISSING』ではもっとお芝居に力をいれたかったのでカメラを同じポジションに戻してもかまわない、というよりむしろ戻したいみたいな、突き詰めて言うと、ワンシーンを2ポジションで撮れれば一番良いという考え方でした。それはワンシーンワンショットというわけでもなく、全て違うカメラポジションでカットをつなげるわけでもなく、リハーサルでお芝居を作っていくなかで、アメリカ映画的なマスターショットの考え方を採用したわけです。『MISSING』はお芝居にウェイトを置いて撮っていたと思います。

まずはシーンを通して俳優たちに芝居をしてもらい、それをマスターショットとして撮影し、それからオプションのショットを押さえていくというやり方です。お芝居の流れを重視してカットを割っていたので編集点をあえて曖昧にしたりもしましたが、そういう演出だったからでた、あの映画特有の力というのは確かにあると思います。

ただ、これは結果論ですが、主人公の子供のことで言うとやっぱり全ての台詞が良い感じに言えているわけではないんです。見返してみると、それは段取りだろ、みたいなところもあったわけですが、そこを差し引いてもちゃんと彼自身の言葉として撮れていたショットもあって、それがとても良かったんです。同じ制作規模でもう一度『MISSING』を撮れと言われても今とあまり変わらない、あれが限界だったと思っています。日数があればリテイクをすることができて、結果もっと滑らかで見やすい形にすることは可能かもしれないけれど、ひとつのドキュメントとしてあの形は唯一無二のものになっていると、そう思います。

次回作の構想

僕は昔からサスペンスとメロドラマは是非やりたいと思っていて、特に女性の猟奇サスペンスものはぜひとも撮ってみたい。他には、大阪に戻る以前からの話なんですが、南博(みなみ・ひろし)というジャズピアニストがいて、昔から僕はとっても好きなピアニストだったんですけど、その南さんがエッセイを何冊か書いているんです。ある人からトライしてみろよと言われたこともあって、それを映画化したいと思い始めまして、この企画は長いスパンで考えているんですが、いつかはやりたいと思っています。

エッセイなのでドラマにするのはとても難しくもあるんですが、ここ数年の僕の映画観の変化からか、ようやっと形が見えてきてはいますし、この映画ができれば僕の間口もひろがるだろうし、やってみたいなと。きっとやれると思っています。
佐藤央監督作品『MISSING』
LOAD SHOWにて ストリーミング/ダウンロード配信中!!
聞き手:岡本英之
構成:島村和秀
『MISSING』
製作:神戸映画資料館/監督・編集:佐藤央/脚本:小出豊/撮影・照明:四宮秀俊/録音:新垣一平/音楽:近藤清明/美術:大石佳奈/助監督:大岸智博/制作:唐津正樹

出演:土田愛恵、きく夏海、信國輝彦、昌本あつむ、八尾寛将、堀尾貞治

2011年|55分|HD|カラー
喪失の時代に生きるすべての人に送る、魂の物語。脚本・小出豊(『こんなに暗い夜』)、撮影・四宮秀俊(『Playback』)、監督・佐藤央(『シャーリーの好色人生』)で贈る、真のリアリストだけがモノにできるロマン溢れる映画。第15回水戸短編映像祭招待上映作品。
《Story》

夫と一人息子のヒロと幸せな生活を送っていた晧子は、軽い気持ちからヒロとの約束を破ってしまう。その日以来、ヒロは二度と帰ってこず、「自分のせいだ」と自らを責める晧子は夫と別れ1人ヒロを待ち続ける。それから5年の年月が過ぎ…。

※nobodymag.com掲載、監督・佐藤央 × 脚本・小出豊『MISSING』を巡る対話

http://www.nobodymag.com/interview/missing/index.php

LOAD SHOWにて ストリーミング/ダウンロード配信中!!

http://loadshow.jp/film/49

  • 『佐藤央(さとう・ひさし)』
    1978年生れ、大阪府出身。法政大学卒業後、映画美学校を修了。短篇ドキュメンタリー『キャメラマン玉井正夫』(2005年)、オムニバス映画『夢十夜 海賊版』の一本「不安」(2007年)などを監督。2008年には冨永昌敬(『パンドラの匣』『乱暴と待機』)との二本立て映画『シャーリーの好色人生と転落人生』の一本『シャーリーの好色人生』を監督し、全国で公開。各方面で高い評価を得る。その他の作品に『結婚学入門(恋愛篇)』(2009年 大阪ヨーロッパ映画祭招待上映)、『結婚学入門(新婚篇)』(2011年 ドイツ・ニッポンコネクション招待上映)、『MOANIN`』など。2011年制作『MISSING』がLOAD SHOWにて配信中。
  • 『定者如文(じょうしゃ・ゆきぶみ)』
    兵庫県神戸市出身。映画少年だった幼少期、バイクに溺れた10代、旅行に彷徨った20代前半を経て26歳で大阪芸術大学映像学科に入学、30歳で卒業・上京し東京藝術大学映像研究科第一期生として過ごし31歳で映像業界へと進む。その後映像業界で数々の現場をこなし東京で過ごした10年のキャリアの集大成として本年度の文化庁新進芸術家海外研修制度を利用してアメリカへと渡る予定。