LOAD SHOW

A Rooted Soul. Vagabond Eyes.

映画の未来をいち早く
Be the first to witness the future of films

#10『映画と私』 大澤浄さん(映画研究者、フィルム・アーキビスト)

「まだまだ収集保存しなくてはならない映画フィルムは膨大にあります」

現在、東京国立近代美術館フィルムセンターで研究員の仕事をしています。フィルムセンターは、聞きなれない言葉かも知れませんが、フィルム・アーカイブという機関です。フィルム・アーカイブというのは、映画に関する資料を収集し、記録保存し、場合によっては復元し、最終的にそれを公開するという、主に4つの活動をサイクルにしています。映画資料というのは、もちろんフィルムがそうですし、それだけでなくシナリオ、ポスター、スチルから映写機などの機材も含みます。私が現在携わっているのは、サイクルの4つ目、「公開」の部分です。具体的には、映画上映の企画立案から準備や広報、実施を担っています。この他に刊行物の編集出版や教育普及活動なども仕事です。フィルムセンターの映画上映が一般の映画館と違う部分があるとすれば多くの場合所蔵フィルムを上映している点です。つまりフィルムセンターで映画を上映するということは、文化財としての映画フィルムを「国立機関として、我々はこの映画を100年後もしっかり保存しますよ、守りますよ」というメッセージでもあるんです。
現在はデジタルの時代になったわけですが、まだまだ収集保存しなくてはならない映画フィルムは膨大にあります。その一方で、現在製作公開されつつあるデジタルシネマをどうやって長く保存していくのかという課題に対する明確な答えは、残念ながらまだありません。これは、映画に関わる個人や組織が皆で知恵を出し合って早急に解決しなければならない、大きな問題です。特にインディペンデント映画の作り手たちは、乏しい資金事情の中、自分たちの映画を自分たちで守るほかない、厳しい状況にあります。デジタルシネマ導入前の時代も含め、ここ30年ほどの日本映画の歴史は、かれらの存在なくしては語りえないのにもかかわらず、です。とり急ぎ自衛のためにお願いしたいのは、デジタル素材はもちろんのこと、製作に使用したソフトウェア、ハードウェア、機器等を捨てないで、信頼できるデジタル保存の方法が確立されるまで持ちつづけてほしいということ、また、それらが失われたときのために、バージョンや型番、ファイル形式などのメタ情報を記録しておいてほしいということです。

「映画以上に映画館そのものとそこに集まった観客に圧倒されました」

僕の最初の映画体験は、おそらく小学校1年生のときに学校の体育館で『ガラスのうさぎ』を見たことだと思います。教育映画として見たはずですが、映画の内容より暗闇の体育館で映画を見るという普通じゃない体験が記憶に残っています。自覚的に映画を好きになるのは、小学校高学年になってからです。作品が好きというよりは俳優やキャラクターが好きでした。ほとんどの映画ファンがそうだと思いますが。007、ジャッキー・チェン、それにロッキー(笑)。007はテレビで『007/ロシアより愛をこめて』を見て、その次の日、学校で友だちと面白かった場面を丸々再現したりしていました。映画館体験としては、『ジャッキー・チェンの醒拳』が衝撃的でした。たまたま友だちとその家族に連れられて見に行ったんですが、劇場は満員で、映画館の一番手前に座りこんで、手に汗握りながら見ました。元々は二本立てか三本立ての併映作品の『北斗の拳』を見に行ったんです。週刊少年ジャンプ世代でしたから。場所は長野県松本市の「エンギザ」という映画館でした。それ以降映画館で映画を見るのが好きになっていくわけですが、小学生ですから、お小遣いの限界もありますし、そんなに劇場に通えたわけではないです。それで映画雑誌を買うようになりました。外国映画が好きだったので『スクリーン』か『ロードショー』の二択だったんですが、『スクリーン』を選びました。『スクリーン』には、淀川長治さんと双葉十三郎さんが書いてたんです。テレビでおなじみの淀川さんの連載は往年の映画スターとその作品についてで、「今の映画だけでなく、昔の映画にも面白いものがあるのかな」と思うようになりました。双葉さんの「ぼくの採点表」を読んだときは、「一ヶ月の間にこんなに映画を見て、星まで付けちゃってる人がいるよ!」なんて思ったりしたわけですが(笑)、それが映画批評との最初の出会いでした。
それ以降、こうした人たちはどんな映画の見方をしているんだろうと気になっていきました。自分にとっての映画の世界を広げてくれた人たちです。ありとあらゆる映画を見始めたのは、松本にレンタルビデオ屋さんができた後のことです。一番上の姉がサブカルチャーに関心がある人で、その影響も受けました。ゴダールから『ディックの奇妙な日々』のようなカルトな作品まで、それこそ週に10本とか見ていました。それと、中学生になってからは、実家で映画館を経営している友人がいて、今考えるとさぞ迷惑だったろうと思うんですが、新作が公開される度につかまえてですね(笑)、当然友人は顔パスですから、一緒に行って見せてもらったりしていました。『ビッグ・ショット』と『ランボー3/怒りのアフガン』の二本立てなんかですね。同じ中学生の頃、父の出張に付いて東京に初めて行ったことがあって、カルチャーショックを受けました。父が仕事している間、当然僕は映画館に行くわけです(笑)。日比谷のシャンテ シネに『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』(1988/監督:ラッセ・ハルストレム)を見に行ったんですが、映画以上に映画館そのものとそこに集まった観客に圧倒されました。赤い絨毯にきらびやかな照明、そこにおめかしをした若い女性たちがひしめきあっていて、松本の映画館では見たことのない光景に興奮しました(笑)。
そういえば、この東京行きの前か後かは忘れましたが、『存在の耐えられない軽さ』(1988/監督:フィリップ・カウフマン)を見に行くためにお小遣いをもらおうとして、親にダメと言われました。エロティックな描写もある映画でしたから、親は僕にはまだ早いと考えたんだと思います。僕自身も、まだある意味純粋な中学生でしたから、ミラン・クンデラ原作だし、評判もいいし、当然お小遣いをもらえると信じて疑わなかった(笑)。それ以降は誰かに対して何を見に行くなんてことは言わずに、ひたすら自分の見たいものを一人で見るようになりました。高校に進学してからは、お小遣いに余裕が出てきたこともあって、映画館に通いつめました。松本市は当時人口20万人程度の小さな町だったんですけど、映画館にはかなり恵まれていました。大劇場の「松本中劇」と同じ建物内にあった、座席数35程度の「シネサロン」というとてもいいミニシアターがありましたから。当時日本で一番小さな映画館として本で紹介されていたところです。月に何度かは、東京のユーロスペースあたりでかかっているような映画を一日限りで自主上映していて、ミニシアター系の映画もけっこう見ることができたんです。(※NPO法人コミュニティシネマ 松本CINEMAセレクト として、劇場閉鎖後も上映活動を継続 )

「映画に対して、魅力的な言葉を投げかけることが大切だと感じています」

映画への関わり方として、見る以外の経験がはじまるのは――高校の時に映画友だちの8ミリ作品に出演したりはしましたが――、大学進学で上京してからです。ちょうど佐藤真さんが授業を教えにいらしていて、実際に16ミリキャメラを回して、ドキュメンタリー映画を撮影しました。そのとき仲間たちと過ごした日々は、今でも僕の映画に対する姿勢の根っこになっています。映画の内容ですか? 山谷に暮らすとても魅力的な小学生の男の子を撮影するというものでした。でもやっぱりぜんぜん撮れないんですね。少年を通して山谷を撮りたいというような不純さもありました。編集の段になって撮影した素材をめちゃくちゃにしてしまったりもして、佐藤さんに怒られました(笑)。映画監督になりたいという欲望をもっていた時期もありましたが、同時に自分は集団作業に向いていないなとも思いました。当時の仲間のひとりに現在映画監督の舩橋淳くんがいたんですが、彼には自分のやりたいことが常にあって、そこに向かってまっすぐ進んでいく姿を見て、自分とは違うなと思ったりもしました。そもそも映画を仕事にしようという勇気がなかったんですよね。それはきっとたいへんなことだという予感もあって、趣味に留めておこうと、気持ちにふたをしていたんだと思います。ただ、素晴らしい映画を見るとそれを言葉にしたくなるし、映画について他人が書いた言葉に違和感を覚えたりもしていて、それでひょんなことから大学院へ進んで映画研究を学んでみようと思いました。
大学院では加藤幹郎先生の教えを受けることになるんですが、本当に大きな転機でした。加藤先生の教えはもちろん、そこに集まっていた、自分と同じような仲間との出会いが、大学時代に続く二つ目の大きな財産になっています。いま映画に対して思うことは、昔より入口の種類が格段に増えましたよね。家庭ではCSチャンネルだったりウェブの動画共有サイトだったり、大学でも映画映像系の学科が増えていますし、メディアミックス的な娯楽の連鎖から、ビデオゲームやテレビアニメから映画にたどりつく人もいると思います。それこそ「LOAD SHOW」もそのひとつでしょう。ただ、そうして入口が増えたことが、そのまま日本の映画環境を豊かにしているわけではないです。具体的に言うと、日本は国民一人あたりの映画観覧本数が、諸外国と比べかなり少ない。特に、毎月1本以上映画館で映画を見る層が少ない。映画館にこだわらなければ、毎月数本と言ってもいいかもしれません。普通に恒常的に、40代50代になっても映画を楽しみ続ける、そうした層をもっと増やすことが大切です。そのためにはいろいろな工夫が必要だと思いますが、我々のような、映画を楽しんでその恩恵にあずかってきた者たちが、映画に対して、若い観客に対して、魅力的な言葉を投げかけることが大切だと感じています。映画を志す人への言葉ですか?かつての自分に対しての言葉でもあるのですが、自分の好きなものができてしまったら、「ここまで」というような接し方の限度はないし、作るべきでもないということです。色々なものを失ったとしても、それは人生を賭けるに値するものかも知れないですから。

あのときの一本

『牯嶺街少年殺人事件』(1991/監督:エドワード・ヤン)
高校生の時に夜のシネサロンで3時間版を見ました。話はほとんど理解できなかったにもかかわらず、これは自分のために作られた映画だ!と勝手に思いこみました。映画というものと一生の付き合いになると感じた、特別な映画でした。
聞き手・構成・写真 :岡本英之
  • 『大澤浄(おおさわ・じょう)』
    大学院で映画学を専攻。修了後、関西の複数の大学で非常勤講師を務めながら映画研究活動を行う。2012年8月からは東京国立近代美術館フィルムセンター研究員。
    今年発表した論文に「マルチバージョンとメタデータ」(『NFCニューズレター』110号)、「清水宏の映画宇宙」(『NFCニューズレター』109号)、「関東大震災記録映画群の同定と分類」(『東京国立近代美術館 研究紀要』第17号)、共著に『森﨑東党宣言!』(インスクリプト)がある。