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『ほとりの朔子』深田晃司監督インタビュー

劇団青年団の演出部に所属しながら映画を制作し、第23回東京国際映画祭日本映画・ある視点部門作品賞や、第15回プチョン国際映画祭最優秀アジア映画賞を受賞した『歓待』の監督・深田晃司。最新作である、『ほとりの朔子』はすでに第26回東京国際映画祭で上映されて話題となり、第35回ナント三大陸映画祭ではグランプリにあたる「金の気球賞」と「若い審査員賞」 をダブル受賞している。『ほとりの朔子』から見る、深田晃司監督の映画の作り方——。

「日本であえてバカンス的な時間を作ってみる」

本作は朔子(二階堂ふみ)という18歳の女の子が主人公のひと夏の物語ですが、なぜこのような題材を選んだのでしょうか?
深田:はっきりとしたスタート地点は、もはや思い出せないんですけど、今思い返してみて、2つ理由はあるかと思います。ひとつに、僕は映画あるいはカメラの被写体というのは、完成されたものよりも完成に向かっているような不定型なものの方が面白いと思うんですね。完成された、成長しきったものを撮るより、次の瞬間どっちに転がるかわからないものを撮る方が面白く感じます。 今回、二階堂さんが演じた浪人生というのは、どこにでも行けるけど、どこに行くのかわからない状態です。それだけですごく映画的なモチーフなんじゃないかと思って設定しました。
もうひとつは、この企画はプロデューサー陣で話し合い、バカンス映画みたいなものを作ろうということでスタートしました。でも、そもそも日本でバカンス映画を撮るということに矛盾があって、日本には夏休みはあってもバカンスってないんですよね。日本でバカンス映画的な時間を撮ろうとすると、それは例えば、引きこもりやモラトリアム、ルサンチマンの問題、20代30代になっても青春やってる大人とか、そっちの方に引っ張られちゃうんですよ。だけどバカンスって本来そういうものじゃなくて期限があるものですよね。あえて日本でそういう時間を作ってみるって面白いなと思い、そういう意味で浪人生という立場はちょうどよかったのかなと思います。
『ほとりの朔子』というタイトルはどのようにして付けられたんですか?
深田:いわゆる何かの周縁にいる、子供と大人の言わばほとりにいる女の子の物語で、物語自体も海と山のほとりで起こります。あと、昔から僕は “ほとり” っていう単語が大好きで、20年前、高校生のときからいつかどこかで使いたいなと思っていたんですね。発音も文字の形もいいですよね。最初『海辺の朔子』っていう脚本タイトルだったんですけど、これではあまりにも『海辺のポーリーヌ』だろうということで、さすがにやめました(笑)。そこで今こそ使い時だと思い “ほとり” という単語を引っ張り出してきたというわけです。
「ほとり」のもうひとつの意味は、「思春期の終わり」だと思っています。思春期の全能感ってありますよね。自分が世界の主人公であってなんでもできる気持ちになるような。ただ、成長するにつれ、自分は誰かの世界の脇役でしかないことを知ります。他者性を得ると同時に自分の限界みたいなものも知り、全能感を失っていく。朔子はその過程にいると思っています。だから「ほとり」です。
まず気になったのは、スタンダードで撮影されていることでした。その理由を教えてください。
深田:自分自身がもっとも純粋に観客として映画にのめり込んでいた中高校生の頃に見ていた映画が、例えば60年代より以前の作品ばっかりだったんですね。そうなってくるとほとんどスタンダードなんですよ。だから自分にとってスタンダードは非常になじみのあるサイズでした。あと、『ほとりの朔子』なんかもそうなんですけど、私はだいたい人間を中心にフレームを作っていって人間を追っかけていく撮り方をしているので、そうなると人間の立ち姿や顔、バストショットを撮るのに一番適したフレームは4:3だと思うんですよね。16:9のときに左右に絵が余るのが気持ち悪い(笑)。なので今回は4:3にさせてくださいと最初にお願いしてこうなりました。

「今の日本で三脚を構えたら、福島と地続きであることを意識せざるを得ない」

内容についてお聞きします。印象的だったのは、福島から疎開してきた孝史(太賀)という高校生です。昨今の映画であれば間接的であれ、直接的であれ震災のことが見えてくるのは当然だと思います。孝史は被災者の代表として集会で演説を求められますが、その演説の内容はみんなが求めていた内容ではなかったですよね。なぜあのような複雑な描き方をしたのでしょうか?
深田:そこら辺はすごくナイーヴな問題だと思います。まずひとつ言えるのは、原発の問題を映画で扱うことに対して私はまったく抵抗がありません。この現代の日本で映画を撮るということ、そのために三脚を地面に置くということは、それはつまり福島と地続きであるということを意識せざるを得ない。仮に孝史みたいなキャラクターを出さなかったとしても当然作家は意識すべきだと私は思っています。あとは『ほとりの朔子』という映画は多くの人物が関係しあって進む物語なので、あれだけの登場人物が出てきたらそのうちの一人に福島の関係者がいても別に自然だろうと思っていました。実際に今回現場に入ってくれたスタッフの中にも福島からの避難者がいました。
ただ、その描き方は慎重に行わなくてはなりませんが、自分自身は原発に反対する立場で、デモにも行ったりします。だからといってこの映画も原発反対のメッセージに傾けるべきかというと、そうではないと思うんですね。ひとつは、映画に限らず表現というものの面白さというのは、どんな価値観でも疑うことができることにありますし、それはつまり自分自身が一番信じていることさえ疑うことができるということです。僕は反原発の立場ですけど、反原発の立場の中にあるかも知れない内在的な矛盾みたいなものですら、映画のモチーフにした方が面白いだろうということです。もうひとつは、どうしても反原発のポジションを明確にして作られた映画の陥りがちな罠があって、反原発の主張を力強く訴えれば訴えるほど、その映画の最大の消費者は、もとからイデオロギーを共有する人たちになってしまうということです。ちょっと意地の悪い言い方をすれば、もともと同じ認識をしている人たちの溜飲を下げるに止まってしまう。でも、もっと豊かなことができるのが映画だろうと思います。原発をモチーフにして作るのなら、原発賛成派の人たちにも染み渡るような表現は何だろうと考え、あのようなカタチになりました。
映画に出てくる女性像がみんな知的でクールだと思いました。深田監督が描きたい女性像のようなものはあるのでしょうか?
深田:あるかないかと言えばないんですけどね。こういう女性像を描きたいという理想像があるというよりは、これはできているかどうかというよりも、そうありたいという考え方はあります。私たちの歴史というのは、どうしたって男性社会の中で価値観や社会制度が作られてきました。芸術表現もそこにものすごく乗っかっているんですよね。映画の現場にしてもかなりの男性社会ですし、プロデューサーにしても監督にしても男性の方が圧倒的に多い中で、例えば、日活ロマンポルノとかピンク映画も作られてきて、それ自体ものすごく優れた作品がたくさんあるんですけど、やっぱりその中で描かれる女性像っていうのは、どこかキャラクター化された、あるいは男性の中での理想的な女性です。それは別に昔の良妻賢母的な女性に限らず、例えば、ロマンポルノが描くかっこいい女性、ファム・ファタールみたいな女性も含めて、やっぱり何か男性の求める女性の類型がある。そういう、なるべく男性が期待する女性の類型みたいなところには近づかない、近づきたくないというのは唯一考えていることですかね。あとは、その俳優さんの個性に合わせて変わってきます。

「青年団の俳優は、ほっといてもずっと自主稽古してるんで(笑)」

演劇との接点についておうかがいしたいと思います。深田監督は劇団青年団の演出部所属で映画を撮られていますよね。本作にも青年団所属の俳優が多く出演されていましたが、現場の中で青年団俳優が場の空気を作るようなことはあったんですか?
深田:遠回しな説明になりますが、僕は青年団の俳優を使うことにメリットがあると思っています。低予算の中で映画を作るとなると、長い稽古期間をもうけることってなかなかできないんですね。だから、撮影当日の朝に初めて会った俳優同士が30年連れ添った夫婦や親子を演じなければならないというようなことがよく起こります。俳優だから何にでもなれるかと言っても、初めて会ってまったくコミュニケーションを取れていないのに、いきなり親密な関係を演じろというのはやっぱり無茶なんですね。別に連れ添った夫婦という設定でなくても、よい演技というのはもともとコミュニケーションがお互いに取れているということが第一前提だと思うんですけど、初めましてだと、まずそこのコミュニケーションの鎖がつながるまでに時間がかかってしまう。でも青年団の俳優を使うことでまずそこをクリアできる。低予算でも演技のクオリティを保つための、ひとつのやり方としてとても有効だったと考えています。
あとは、僕自身が監督として意識することは、やっぱりカメラの前でちゃんとコミュニケーションを取ってほしいということなんですね。そうなってくると、初めましての俳優がそれぞれの控え室にこもって本番のときだけ顔を会わすという状態じゃ困るので、現場でできるだけ話しやすい雰囲気や、待ち時間に例えば自主稽古をしやすい雰囲気を作ることも演出するという意味では、最初の仕事だと思っています。逆にいうと、それができればある程度のところまでいける。そのときに青年団の俳優っていうのはとてもいいんですよ。彼らは本当に演技に真剣なので、ほっといてもずっと自主稽古してるんで(笑)。あとは、こっちとしては「自主稽古しておいてくださいね」と一言うながすだけです。これはいろんな俳優が交わるためには地味に重要かも知れません。
作品を見て、フレームの外にある演技が見えてきて、それが青年団の作品にも共通する部分だと思いました。例えば、当事者がいない中でずっと複雑な男女関係が語られていて、そんなときに辰子(杉野希妃)の誕生日会が開かれて全員が集合するシーンは特に青年団的なものを感じました。映画を作る上で平田オリザさんの演出はどのように影響していますか?
深田:青年団の芝居を初めて見たときは、それまで見ていた演劇とはまったく違ったものだったので驚きました。たまたま人に誘われて見に行った多くの演劇が、熱く感情を語る、言わばドラマを語ろうとしていたことに対して、青年団はドラマの周縁を描こうとしていたんですね。それはいかに観客の想像力に対して開かれているかという考え方だと思います。僕としても100人のお客さんが見たら100通り見方が別れる映画であってほしいんです。見る人が違えばその人の歩んできた人生も違うわけですから、それに合わせて多様な見方ができる映画の方が僕は面白いと思います。もちろん、ある種の映画みたいにカタルシスでお客さんを巻き込んで感情移入させて、みんなが一緒に感動できる映画もそれはそれで面白いと思うんですけど、自分が作りたい映画はそうじゃない。
そうなってくると具体的な作業として、いかに上手く余白を作って観客に想像してもらうかっていう戦いになります。でも人間の想像力なんて限界があるので、余白は作るけどその周辺を緻密に描き込んで、多様な見せ方ができる余白を作ります。今回の映画で言うと、二階堂さん自身が余白だと思います。そういう作り方というのは平田オリザがものすごく洗練された形でやっています。でも考えてみたらそれまで僕がいい映画だなと思っていた、成瀬巳喜男やエリック・ロメール、小津安二郎も同じことをやっているんですよね。平田オリザは現代の日本語で一番洗練された形でやっているというだけで、何も平田オリザだけが革新的にやったことではないんです。エリック・ロメールをどんなに好きだと言ってもそれを日本人でやろうとすると失敗するんですよ。それは単純に、日本人はあんなふうにべらべらと自分のことをしゃべってくれないからです。じゃあエリック・ロメールと平田オリザを足して2で割れば日本でエリック・ロメールができるじゃないかっていう妄想から入っていった感じです(笑)。

「本人とキャラクターの薄皮一枚の隙間を縫って話して欲しい」

劇中でエチュード的な作り方のシーンはありますか?
深田:ほとんどは台本どおりなんですけど、『ほとりの朔子』でいえば、完全に即興でやっているのは2か所あって、ひとつは誕生日の場面ですね。僕の方から「恋愛について」など、話のテーマを与えて、あとは役柄を離れて自分の恋愛観を話してくれとお願いしました。本人とキャラクターの薄皮一枚の隙間を縫って話して欲しいと思ったんですね。なので鶴田さんがあそこで語っている恋愛観は鶴田さん本人の性格に結構近いものかもしれません。それと、あのシーンでいえば杉野さんと古館さんにとにかく大竹さんを攻撃してくれ、いじってくれと言いましたね(笑)。もうひとつは、最後に二階堂さんと大賀くんが線路の上を歩きながらいろんな国名をあげるシーンです。あそこは細かく国名を指定したのではなくて、2人が「遠い所」からイメージする地名をどんどんあげていってもらいました。いわゆるエチュード的な感じで作ったのはその2か所ですね。まあ、エチュードなんて上等なもんじゃなくて無茶ぶりってやつですけどね(笑)。
海外からの反応はいかがでしたか?
深田:そんなに極端に日本からの反応と変わるということはなかったと思います。やっぱりフランスでやったときはエリック・ローメルとかヌーヴェルバーグの映画を見ているのか、という質問はありました。あとは、フランス人から見て、なんで彼らは恋人同士なのに身体的に接近しないんだっていうことは聞かれました。それは面白いなと思いましたね。フランス人は人前でも恋人同士はベタベタするじゃないですか。でも日本人だと恋人同士でも人前では手すら繋がなかったりするので、そこら辺の違いは彼らにとって面白かったのではないかと思います。
本日はありがとうございました。
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※オーディトリウム渋谷、シアター・イメージフォーラム限定。チケット1枚につき、1名有効 。
聞き手: 石川ひろみ、島村和秀
構成・写真: 石川ひろみ
『ほとりの朔子』
監督・脚本・編集:深田晃司/プロデュース:杉野希妃/エグゼクティブプロデューサー:小野光輔、足立誠、宮田三清、奥山和由/撮影監督:根岸憲一/音楽・音響監督:Jo Keita出演:二階堂ふみ、鶴田真由、太賀、古舘寛治、杉野希妃、大竹直、小篠恵奈、渡辺真起子/製作:Sakuko Film Partners(和エンタテインメント、レトル、アトムエックス、チームオクヤマ)/2013 年/日本、アメリカ/カラー/スタンダード/125 分/HD
【STORY】 大学受験に失敗し、現実逃避中の朔子(二階堂ふみ)。叔母・海希江(鶴田真由)の誘いで、夏の終わりの2週間を海と山のほとりの避暑地で過ごすことになった。朔子は、美しく知的で、やりがいのある仕事を持つ海希江を慕い尊敬している。朔子は海希江から幼なじみの兎吉(古舘寛治)とその娘の辰子(杉野希妃)を紹介される。続いて、兎吉の甥で福島から避難してきている同年代の孝史(太賀)と出会い、幾度か会うたびにふたりの距離は近づいてゆく。さらに海希江の恋人・西田(大竹直)の登場によって少しずつ不協和音が鳴り始める。子供と大人のほとりにいる朔子が、大人たちの中で人生の複雑さを少しだけ覗きみる夏物語。
http://sakukofilm.com/
  • 『深田晃司(ふかだ・こうじ)』
    1980 年生まれ。大学在学中に映画美学校3期フィクション科に入学。2001年、初めての自主制作映画『椅子』を監督、2004年アップリンクファクトリーにて公 開される。その後2本の自主制作を経て、2006年『ざくろ屋敷』を発表。パリKINOTAYO映画祭にて新人賞受賞。2009年長編『東京人間喜劇』を発表。同作はローマ国際映画祭、パリシネマ国際映画祭に選出、シネドライヴ 2010大賞受賞。2010年『歓待』で東京国際映画祭「ある視点」部門作品賞受賞。2014 年 には三重県いなべ市にて地域発信映画『いなべ』を監督した。2005年より現代口語演劇を掲げる劇団青年団の演出部に所属しながら、映画制作を継続している。