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川瀬陽太、ゴダールを語る

『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』デジタルリマスター&新訳版が7月公開!

-今日の撮影は?

『勝手にしやがれ』(1960年)『気狂いピエロ』(1965年)の、デジタルリマスター&新訳版が7月に公開ってことで、グッズのTシャツが発売になると。それで公開先がK's cinemaということもあるけど、映画との親和性がある場所でモデルをたてて撮影しようとなって、じゃあゴールデン街、なんとなく俺でってことだよね(笑)。

-ゴダールを語る

ゴダールをって大上段からこられたら厳しいけども(笑)。はじめて見た作品って『ワン・プラス・ワン』(1968年)だった多分。輸入ビデオだったかなんだったか忘れたけど、友達が持っててさ。だけどそのときはストーンズの変わったPVとして見てたところがあった。のちになってさ、映画見てれば『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』のことは聞こえてくるわけだから、それは名画座かフィルムセンターで見た。

-タペストリー

専門学校とかに行ってる友達のおうちにいくとポスターが貼ってあるようなイメージがある。下手したらジグソーパズルになってるような(笑)。路地に立つジェームス・ディーンと同じくらいにジャン=ポール・ベルモンドの顔はあちこちで本当によう見たし、ある種のお洒落というか意味が無化してアイコンとして存在している感じすらあった。同じようなイメージってところで、『欲望』(1967年/監督:ミケランジェロ・アントニオーニ)なんかもそうだけど、そういう映画って、俺たちは一生懸命背伸びして見に行ってたわけで。ただ、そのときは既にゴダールたちのジガ・ヴェルトフ云々かんぬんも終わったあとで、要は祭りのあとに会いに行ってるわけです。『中国女』(1967年)だって、YMOが「東風」を出したときにその影を知ったというか。話を戻すと、ポスター飾るのにはちょっとって思う映画が当然あるわけだけど、ゴダール映画はこれは是非飾りたいというトップクラスにあったんじゃないかなあ。テオ・アンゲロプロスのポスターは重くて貼らないだろうし。見たらもの考えなきゃいけない(笑)。タペストリーにもなり得るのがゴダールの映画、いちいち画になっちゃう。90年代で言えば、『トレインスポッティング』(1996年)もポスターが貼られてるイメージ強いけど、あれはハシカみたいなもんだし。けどゴダールは違う、そういうふうには思わない。ゴダールの中でもさ、自分のそういったある種スノッブな見え方に対しての煩悶とか、なかったのかなあ?多分自分の望んだカタチではなかったと思う。いまやまさか自分の映画のポスターがジェームズ・ディーンの隣に並んで売られてるなんてさ。

-たちの悪いヒモ

スタイルというのは狙ってどうこうという話じゃないし、それはもう天賦の才としか。海に車が沈んだり、爆発したり、ジャンルを横断してハッとさせながら、且つきれいな構図で見せてくれたりとか。俺がゴダールを好きか嫌いかは置いておいて、ゴダールのそれは、のちの俺の好きなあの映画この映画にも散見されるわけだけど、好きな映画がゴダールの引用なんだからタチが悪い。ゴダールの場合は手法を模倣されるんだね。テーマ云々じゃなくて。『アルファヴィル』(1965年)とか見るとね、SF設定のこんな感じで撮ったら面白いかもなって発想も与えてくれる。がゆえに、『アルファヴィル』に影響を受けたものも世の中にたくさん出ていったと思う。ウルトラセブンで『アルファヴィル』を模した回があったりもしたよね。それにしても、どうしようもないよ、俺たちが扉を閉めようとしても、たちの悪いヒモみたいに玄関先へつま先をねじ込んでくる感じなんだから(笑)。「なあ、お前結構俺の映画好きなんだろ?あの長回し好きか?」ってね(笑)。相米慎二さん見て斬新だと思ってたのが、あ、これゴダールなのかなとか、それは黒沢清さんの映画もそうだったろうし、驚愕するよね。いちいち男の影があるっていうか、他の男を好きになろうが「俺のこと忘れらんねんだろう?」って感じで近くにいるのがゴダールなる存在で。

-ハブ

ゴダールは俺たちが知らないものを知るためのハブみたいなものだったとも思うよね。それはゴダールが以前から好きな人間にしてみたら不真面目な見方というか、正当な見方ではないかも知れないけども、映画史的に見ていないところでの、ゴダールなるものの手触りが俺たちの中にもあったというか。フランソワ・トリュフォーもそうだけど、そもそも名前が、ゴダールだとかトリュフォーだとか敷居が高いわけだけど、その名前を口にしてみたいというようなところからはじまってね。当時の話だけど、水道橋のドーム型映画館に、『さよなら子供たち』(1987年/監督:ルイ・マル)を見に行ったことがあって、これがあのルイ・マルかみたいな感じで見てたりもするんだけど、一方普通にええ話だったりするわけですよ。やっぱりね、ゴダールの場合は見るたびに狐につままれるような感覚があったというか、なにか強烈なものが放たれてはいるんだけど、その具体は俺らの浅薄な知識ゆえにね、フランスの歴史であったりだとか運動だとかも知らないわけだから分からないところがありはするんだけど、だけどそこにはくすぶり続けるような強烈な画があって、普通じゃないということは分かる。前後のつながりが曖昧で、ともするとこちら側に話しかけてきたりするような展開も含めてね。まあそれらは誰もがゴダールを見て言うことだとは思うけれど。それとね、今となっては何様だって話なんだけど、俺たちにもなにかできるかも知れないと思わせるなにか、そういう空気感、映画の文法はひとつじゃないよと言われている感じがさ、浅く見ても伝わってきていたよね。

-湿度

例えば、アンゲロプロスは湿度というか情感を伴ってくるけど、ゴダールには湿度がない。「湿度がない」という言葉はのちに思いついたものだけど、そこをずっと感じてたんだよね。突き放すように撮られているというか。フォーマットとしての映画史を俯瞰しながら且つ実制作側にいく人たちによる映画、そういう映画ってものがあるんだなと。ゴダールの『ウィークエンド』(1967年)なんかね、どんなに酷いことが起きても、言い方は悪いけど「たかが映画だ」という具合にカタルシスがない。いわゆるあからさまなテーマ主義的映画っていうのは温度も湿度もあって、作家自身が、主人公もしくはテーマそのものである場合は特に、そこに乗って作られているけど、ゴダールの場合は社会的な事象をずうっと扱っていながら、そこに自分の主張としての温度もあまり感じないというか、もちろんあり過ぎる位熱はあるんだけどね、カンヌを粉砕しちゃう訳だから。

-幸運な季節

ひと昔前はね、俺や周りに関しては結構背伸びして見に行ってたけども、全体として映画というものに対する造詣とまでは言わなくとも、結構な藝術映画まで人々は容認していたという感覚はある。それから少し経ってさ、ポスターの話の流れだけど、ヴィム・ウェンダース、ジム・ジャームッシュといった人たち、この人たちがまたお洒落アイコンになったわけですよ。お話それ自体が劇的に面白いとかではないんだけど、端的に言って画がきれい、構図がきれいということもあったろうね。まあぶっちゃけ日本も景気が良かったからというのはあるかも知れないけど、分からないものが見たいという感覚があって、色々と文句言いながらも、自分は何が好きなんだと問いかけたときに、世の中には色んな映画があって、ネットでなんでも見れるなんてことはなかったから、それをお金を払ってその場所に見に行ったんだね。お客を呼んでる人たちは世代がちょっと上で、ゴダールで言えば政治の時代も一緒に通過してきたようなさ、そういう人たちがこれを見て欲しいとやってくれていた、映画と出会うに幸運な季節があったんだよね。

-たちの悪い女

ざっくり言って、誰と比較してもゴダールって人はシュッとしてるわけですよ。そして確かに何かを言ってるんだけど、こっちは言ってる具体を理解してなかった。それは80年代後半のことだけどね、なんだろうな、こんなことをジャンルを横断しながら軽やかにやってるこのおじさんはなんなんだと。『勝手にしやがれ』とか『気狂いピエロ』が、ある種エポックメイキングな何かだったとしてね、例えば音楽家でもさ、一枚すごいアルバムを作って彗星のように現れたとして、それで次のアルバムを聞いたときに、もだえつつ乗り切れないってことがあったりするわけで。だけれどもずっと期待感を持って見続けるというか、常に歯痒く思わせられても次も自動的にっていう、さっきのヒモの例えじゃないけどさ。けど、アンナ・カリーナに恋してたりだとか、ちょっとこちらにもに付け入る隙があったりもするんだよね。好きな対象をひたすらに撮るということは、おうちで彼女を撮るってことと変わらないわけでね、もちろんそこに理論武装をしてたのかも知れないけど、そうした時期を早々と過ぎてしまったというか、早々と枯れた人のような気がするんだよねゴダールは。個人的にはもっと理解しがたいものを作る人、例えばイエジー・スコリモフスキだとか、もっと内的な世界を描いている人がいることものちに知ることになるんだけど、総体として映画というのは豊かだなと。ブルース・リーからなにまで全部ひっくるめて。ゴダールはそういう感覚に至る発端としての存在。

-フレーミング

タイトルに作家の名前が入ってくるパターンね。『ジョン・カーペンター`S』何々とか。ゴダールの場合はジャンルを横断していくから、売り手が名前を付けられないと思うんだよね。マリアって言われてもさ……みたいな。ウディ・アレンもそうだけど、それは作品にそこまでの強度がなかったという話だと思うけどね。街にいて恋愛沙汰を扱ってというようなさ。もちろん『ウディ・アレンの重罪と軽罪』(1989年)みたいな重い、まあ毎度重いっちゃ重いのかも知れないけど、ゴダールみたいにはいかないんだな。ウディ・アレンは『中国女』は撮らないし、映画内の不文律は守る感じがする。それに、ウディ・アレンはアカデミー賞を拒否したけど、ゴダールはカンヌを粉砕したんだから。これはレベルが違うというよりは考えてることが違うよね。かえすがえすもゴダールには天賦の才があってしまったという話なんだけど、観客の側がフレーミングしたがるんだよね、額装したがる。それこそポスターを飾るように。そうされるのがゴダールの一番の才なんじゃないかとさえ思える。今はその才をフレーミングされないような、そこを超えていくものを作るということに苦しみ且つ意欲を感じているんじゃないかなと勝手に妄想してます。エポックメイキング的な登場からそのままの流れで行ってれば安泰だったろうし、もっとソフィスティケートされていって、そこに政治的なものをちょろっと入れて作ることだってできたろうにね。もはや俺はさ、いまのいまゴダールが何を考えているか確認をしに行ってるだけなのですよ。映画の出来がいいとか悪いとかを超えちゃってるわけだよね。ましてや今はビデオになって、制作自体かつてより潤沢にはいかないってこともあるだろうけど、だから尚更今はビデオダイアリーを見せられている感覚があるんだよね。強くは言えないけど、それは『ゴダールの映画史』(1988年)くらいからはじまっている感はある。けどね、『ゴダール・ソシアリスム』(2010年)を見たときには、もう俺はいいかも知れないというか、卒業させられた、捨てられた感はあったけどね。

-だってゴダールだから

ゴダールだって映画屋さんなわけで活動にはお金が必要だからね、CMだってやるだろうし、アジアのどっかでやってるからバレないとかあったかも知れないけど(笑)、日本のCMもやってる。ただ、映画にしろCMにしろ、ある作品のためにお金が必要だからそれを撮るということはあるだろうけど、その作品が一方で極端に商業的であるとかそういうことにはならないし、そういう挟持はゴダールにはないだろうね。それに頼んでいるほうにもないよ。だってゴダールに頼んでるんだもん(笑)。

-ビューッと来たら、バシンと打て

何度も言うけど、アンナ・カリーナを好きになったりとか、そういうかわいいときがゴダールにだってあるじゃないかと。男女の差異の話が多いけどさ、男は理論派、女は奔放で、衝突があったりとか、それに関してはアートもへったくれもなくて、ゴダールって面倒くさいこと言うんだろうなってことでしかないとかさ(笑)。そういうこともあるわけよ。ゴダールのくせ球はね、誰にも投げられないよ。それを教えようったって無理で、だけれどもそういうピッチャーに憧れちゃうってのが面白いわけだよね。「さっきの球どうやって投げたんですか?」って聞いてみたところで、「これ球だろ?あそこにキャッチャーいるだろ?投げるだろ?な?」みたいなさ、長嶋さんの「ビューッと来たら、バシンと打て」とかそういうあれじゃないけど(笑)。
協力:Hungry Humphrey
取材・構成 :岡本英之
   写真 :田中柾幸
『勝手にしやがれ』
出演:ミシェル・ポワカール(別名ラズロ・コヴァックス):ジャン=ポール・ベルモンド /パトリシア・フランキーニ:ジーン・セバーグ /ヴィダル刑事:ダニエル・ブーラ ンジェ /作家パルヴュレスコ:ジャン=ピエール・メルヴィル/アントニオ・ベルッチ:アンリ=ジャック・ユエ/密告者:ジャン=リュック・ゴダール
監督・脚本・台詞:ジャン=リュック・ゴダール/原案:フランソワ・トリュフォー/監修:クロード・シャブロル/製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール/撮影:ラウ ル・クタール/音楽:マルシャル・ソラル

1960年/フランス/90分

配給:オンリー・ハーツ

©StudioCanal

ストーリー:自動車泥棒の常習犯ミシェル(ベルモンド)は、マルセイユで盗んだ車を走らせパリに向かう。その道中、白バイに追いかけられ、咄嗟に車中にあった拳銃で警官を射殺してしまうミシェル。パリに着いた彼は、トルマチョフから約束の金を受け取るために旅行社を訪ねるが、手渡されたのは振込小切手で、アントニオ・ベルッチ(ユエ)なら現金化してくれるという。そうこうするうちにヴィダル刑事(ブーランジェ)の尾行が。まんまと撒いたミシェルは、シャンゼリゼ通りでニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙を売るパトリシア(セバーグ)に会いに行く。彼女はアメリカ人の留学生で、2人は南仏の海岸で出会いベッドを共にした仲。けれど、記者志望の彼女はミシェルの誘いを蹴り、新聞社の男に会いに行ってしまう。仕方なく彼女の部屋に無断で入り込み、一夜を明かすミシェル。翌朝、彼と他愛無いひと時を過ごしたパトリシアは、有名作家パルヴュレスコ(メルヴィル)の記者会見に参加するためにオルリー空港へ。一方、新聞に「警官殺し逃走犯」として大きく顔写真が載ったミシェルは、パトリシアのところにまで刑事が事情聴取にやって来て、次第に追い詰められていく。彼は現金が手に入るまで、パトリシアを連れて、カンパーニュ・プルミエ通りのアパルトマンに身を隠すが…。
『気狂いピエロ』
出演:フェルディナン・グリフォン(ピエロ):ジャン=ポール・ベルモンド/マリアンヌ・ルノワール:アンナ・カリーナ/フェルディナンの妻マリア:グラツィエラ・ガルヴァ ーニ/マリアンヌの兄レッド:ダーク・サンダース/アメリカ監督:サミュエル・フラー/小男:ジミー・カルービ/港の男:レイモン・ドボス/政治亡命者ラズロ・コヴァックス:ラ ズロ・サボ /ギャング:ロジェ・デュトワ/ギャング:ハンス・メイヤー/映画館の若い観客:ジャン=ピエール・レオー
監督・脚本・台詞:ジャン=リュック・ゴダール/原作:ライオネル・ホワイト/製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール/ディノ・デ・ラウレンティス/撮影:ラウール・ クタール/美術:ピエール・ギュフロワ/音楽:アントワーヌ・デュアメル

1965年/フランス・イタリア/105分

配給:オンリー・ハーツ

©StudioCanal

ストーリー:フェルディナン(ベルモンド)は、金持ちの妻との生活に退屈し、逃げ出したい衝動に駆 られていた。そんなある夜、夫婦がパーティに出かけるため、幼い娘のベビーシッターがやって来 る。彼女はなんと、かつての恋人マリアンヌ(カリーナ)だった。パーティを抜け出し、1 人で帰宅した フェルディナンは、彼女を車で送り、そのまま一夜を共にする。翌朝目覚めると、彼女の部屋に、首 にハサミを突き立てられた男の死体が。驚く彼とは裏腹に、平然と朝食を作り歌うマリアンヌ。フェ ルディナンは、わけは後で話すという彼女と一緒に、着の身着のままでパリを後にし、マリアンヌの 兄がいる南仏へ向かう。お金のない 2 人は、ガソリン代を踏み倒したり、物語を語ってチップをもら ったり、車を盗んだり。はては海岸の一軒家で、ロビンソー・クルーゾーよろしく自給自足生活。フェ ルディナンは大満足だったが、マリアンヌは欲求不満を募らせ街に飛び出す。そこで出会った小男 (カルービ)がまたもハサミで殺され、マリアンヌは姿を消す。フェルディナンはギャング 2 人組に捕 まって、彼女の居場所を教えろと拷問されるが、何も知らないと分かり解放される。マリアンヌを探 し歩いたフェルディナンは、ようやく彼女を見つけるが...。
  • 『川瀬陽太』
    1969年生まれ、神奈川県川崎市出身。当初、自主制作映画の助監督の仕事を中心に活動していたが、たまたま参加していた福居ショウジン監督の自主映画『RUBBER’S LOVER』に主役として出演する事に。この後、福間健二監督の『急にたどりついてしまう』(1995年)に出演。この映画の制作に参加していたスタッフの多くがたまたまピンク映画出身であったため、そうした経緯で瀬々敬久監督をはじめとしたピンク映画の関係者と交流を深め多くの作品に参加、近年では『サウダーヂ』(11/富田克也監督)、『クローバー』(14/古澤健監督)、『超能力研究部の3人』(14/山下敦弘監督)、『新しき民』(14/山崎樹一郎監督)、『みずち』(15/堀江実監督)、『ジョーカー・ゲーム』(15/入江悠監督)、『さよなら歌舞伎町』(15/廣木隆一監督)、『乃梨子の場合』(15/坂本礼監督)、『蜃気楼の舟』(15/竹馬靖具監督)、『ディアーディアー』(15/菊地健雄監督)、『清澄』(15/染谷将太監督) など一般映画やテレビ分野、舞台へも進出し、その個性的な演技で注目を集めている。2016年、『ローリング』(15/冨永昌敬監督)、『犯る男』(15/山内大輔監督)等の演技で、第25回日本映画プロフェッショナル大賞主演男優賞を受賞。公開中作品に、『華魂 幻影』(佐藤寿保監督)、『64』 (瀬々敬久監督)、公開待機作に『息衝く』(木村文洋監督)、『月夜釜合戦』(佐藤零郎監督)、 『ミートボールマシーン』(西村喜廣監督)、『眼球の夢』(佐藤寿保監督)、『バンコクナイツ』 (富田克也監督)など多数。瀬々敬久監督とのコンビが有名。