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【連載】映画時評vol.1「死のスペクタクル化を乗り越えるドキュメンタリー」

『クライマー パタゴニアの彼方へ』

虚実のあわい――『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

私は混乱していた。『わたしたちに許された特別な時間の終わり』がポレポレ東中野で上映中の、太田慎吾監督にインタビューしていた時のことだ。

ミュージシャンとして活動を行っていた友人・増田壮太の自死を中心的なモチーフ、というよりはまるでブラックホールであるかのように、増田さんとバンド活動をする蔵人君と、その2人を被写体に映画を撮る太田慎吾監督自身がぐるぐる回る衛星のような構造を持つこの映画は、夢見る青年たちの現実的な生活苦がリアルな形で描かれ、胸をうつ。

ただ、その中でも一番印象に残るであろう、「一人暮らしで生活が苦しいから、映画を撮るのをやめたい」と泣く太田監督を、増田さんが家に押しかけ包丁を突き付けて「映画を撮り続けろ」と脅すシーンが「記録」ではなく「再現」だと知ったからである。

もちろん、森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)を紐解けば、そんな驚きがどんなに制作の実態を知らず、ナイーブなものかということはすぐに分かる。

タイトルどおり、森はこの本で、「ドキュメンタリーは事実を映すもの。台本や演出、つまりヤラセはあってはならない」という今でも根強く残る定見を、自分の経験や、様々なドキュメンタリー映画を例に出して根気よく崩している。
「フィクションとノンフィクションの狭間を探したところで、意味などない。極端に言えば、僕らの実生活だってつねに、この狭間を行きつ戻りつしているのだから」(P94最終行)
「「撮る」という作為は、事実に干渉し変成(フィクション化)させる。言い換えれば、現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ」(P124L12)
森はドキュメンタリーを以下のように規定する。
「関係性を主体的に描くことが、何でもありのドキュメンタリーにおいて唯一の原則であり、意識すべき作法」「撮る側の主体を最大限に解放することがその前提」。
私がその場面が「再現」である、と聞いて驚いた理由は主に3つある。最初に断っておくが、もともとこのシーンは、「記録」にしては出来過ぎで、観客にも違和感を抱かせやすいシーンなのである。私もだからそれが記録であるか再現であるか確認したところがあるのだが。

まず、「被写体」ではなく「監督」自身の出演シーンだということ。次に、そのシーンで、「泣く」という映画によってはクライマックスになりかねないようなことをしているから。最後が、増田さんが自死してしまった、その痛みがこの映画が中心的なモチーフであるということ。

監督が、「自分自身」の出演場面を演出する、という例は、セルフ・ドキュメンタリーが跋扈している昨今では珍しくないのかもしれない。

現に、森のこの本の中でも、『向かい風来るまで~おやじの唄~』というセルフ・ドキュメンタリーのラストは、祖父を殺して服役中の父親に、大池監督が面会の電話をかけるシーンで終わるのだが、それを監督が上映後の質疑応答で、「フェイク」だったことを明かしていたことが紹介されている。

『あんにょん由美香』(平野勝之監督)、『アヒルの子』(小野さやか監督)、胸を抉られるような、監督自身が身を削っているように見えるセルフ・ドキュメンタリーの秀作でも、「フェイク」のシーンがないことはないのかもしれない。そんなことを問うこと自体が、森が言うように意味がないのかもしれない。

でも、やはり、『あんにょん由美香』には「フェイク」はなかったのではないか、と思いたい自分がいる。それは林由美香が劇中で亡くなっているからだろう。

私は素直に疑問をぶつけてみた。

「でも、ドキュメンタリーと謳ってしまうと、「やらせ」と批判されてしまう恐れもあるじゃないですか。フィクションにしてしまえば、そういう恐れもなくなりますが。 」
太田監督はきっぱりと答えた。
「フィクションではないと思うんです。増田君の人間性や、音楽に惹かれて映画を撮っているわけだから。それに「やらせ」の何が悪いの、と僕は思うんです。「やらせ」だと言われることへの不安は僕は全くなかったです。 」

「フェイク」のない映画――『クライマー パタゴニアの彼方へ』

混乱した理由はもう一つあった。太田監督の取材の4日前に、『クライマー パタゴニアの彼方へ』の主演で、若き天才クライマーであるデビッド・ラマに取材したせいである。『クライマー』は今までの山岳ドキュメンタリーのイメージを覆すようなパワーに満ちた快作で、私は取材当日、その時銀座でかかっていた『ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂』を観てから向かった。一体どこが違うのか具体的に確かめたかったのである。

『クライマー』を観てしまうと、『ビヨンド・ザ・エッジ』はいかにも古臭く、欠点ばかりが目立った。

『ビヨンド・ザ・エッジ』は1953年、イギリス遠征隊に所属していたニュージランド人のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイがエベレスト初登頂に成功した史実をもとにした映画である。もちろん俳優が演じる再現ドキュメンタリーである。映画としてよくできていないとは言わない。ただ、トラブルで酸素が足りないなか2人でのろのろとエベレストの頂上を目指して登っていくクライマックスのシーンも、作られた、再現されたスペクタクルであることは変えようがない事実で、その「フェイク」感は3Dの不自然な立体感が拍車をかけていた。

『クライマー』は全てが現在進行形のドキュメンタリーである。第1回目の登頂で、撮影隊が打ったボルトによって「山を傷つけた」とデビッドに非難が集中したことも正直に描いている。世界一登頂が困難な山セロトーレのコンプレッサールートのフリー化という優雅な成功を収めた第3回目の登頂時ですら、カメラは寝過ごしてしまって「早く登れ!」と地元住民に野次を浴びるデビッドの姿を納めている。

借りた部屋でくつろぐデビッドのまだあどけない眠そうな表情。クライミングパートナーのペーターと、本日は登れるのかどうか、天気図を睨むシーン。「神は細部に宿る」と言うが、こういったディティールに宿る真実味が、この映画を「フェイク感」からは遠いものにしている。だからこそ、まるで真実味がない、セロトーレの絶壁をデビッドが装備らしい装備もせずに登る終盤のシーンが、観客の胸を震わすのだろう。

目の前にいるデビッドは、あんな超人技をこなしたとは信じられないくらい、小柄で細い青年だったが、私は素直に疑問をぶつけてみた。
「クライミングの映画なら今までもたくさんありました。ただドキュメンタリーでも、史実をもとにしている劇映画でも、クライマーの死と隣り合わせの過酷な状況が描かれます。観客は死と名誉と友情の板挟みになる「男たちのドラマ」を期待し観に行く…という図式ができあがっていると思います。この映画はそうした図式からは外れていますね。」
デビットの答えは明晰だった。
「クライミングが危険であることは明白で、死の影がつきまとうことなんて、最初から分かっていることです。他にたくさん描きたいことがあったので、誰が見たって一目瞭然のことをわざわざ描く必要はないと思った。あなたが言ったように確かにそういった山岳ものは、「死と対峙する登山家たち」を強調し、ほとんどそれだけになってしまっていることを、僕はとても残念に思います。」

「映画は、どちらかというとノンフィクションの方が好きですね。これから映画を作るとしても、絶対にやりたくないのは「フェイク」ですね。作り込んだりすることはしたくない。過去に起きたことを再現する「再現系」のドキュメンタリーは、僕は好きではない。ドキュメンタリーであれば、その場で実際に起きていることを記録すべきだと思うんです。」
私が混乱したのは、被写体である天才クライマーが「フェイクは絶対にやりたくない」と言い切った映画も、監督が「やらせの何が悪いの、と僕は思うんです」と言い切った映画も、どちらも愛していたからであろう。

「フェイク」の是否をここで突き詰めるよりも、森のこんな言葉を引いてみたい。
「ドキュメンタリーは監督という主体が呈示する現実へのメタファーなのだ。もちろんフィクションにとっても、現実へのメタファーという機能は重要だ。でもドキュメンタリーは身も蓋もない現実を素材にするだけに、その要素はずっと強い。創造と加工のせめぎ合いはつねにある。撮る側の主体と意識が問われる。」(『ドキュメンタリーは嘘をつく』P227L4)。
『クライマー』の、墜落と遭難の危険と隣り合わせの「死のスペクタクル」を撮るのではなく、まるで青春映画のように山岳映画を撮る、という意識は徹底している。私は2度観たが、昔観た青春映画の数々を思い出したり、3.11後の我々の姿勢に示唆を与えているのではないかと思ったりした。

終盤、ほとんど垂直の絶壁を登るデビッドは苦しそうだ。足場はないに等しいし、手はもう傷だらけだし、岩は脆くて崩れてくる。次の一手を間違えるだけで、死に繋がる。でも映画はそれを強調しない。岩場が崩れるのを映しても、それが谷間に落ちていくのは映さないのだ。われわれが見るのは、デビッドの苦しそうな表情と息遣いと、そして次の一手を着実にこなすクライミングだけだ。

われわれはそれを見て様々なことを考え、想像する。誰しも絶壁を登るような経験をしたことはあるだろう。3.11後、被災地の復興もままならず、政治はキナ臭さを増している今の日本の状況こそ、崖っぷちであるのかもしれない。

われわれは、デビッドと一緒に絶壁を登る。「クラインミグ」が、一人のクライマーのもののみならず、「われわれの足取り」にもなるところが、この映画の優れたところであろう。

「“フェイク”のないドキュメンタリーを作る」という決意は、「人工的な手段に頼らず自然の造形のみを利用し岩を登る」フリークライミングというスタイルと、当然のことながら関係しているのだろう。

それを「映画人ではない故の潔癖さ」だと言うことはたやすいだろう。しかし、初めて「ドキュメンタリー」と名付けられた『極北のナヌ―ク』を撮ったのが、ロバート・フラハティという探検家だったことを思い起こすと、この問題はもう少し慎重に考える必要があるのではないかとも思う。

『わたしたちに許された時間の終わり』も、ドキュメンタリーにフィクションを取り入れ、その虚実のあわいを観客に味わせることと、時制を単線にしないことによって、「死のスペクタクル化」から逃れていると言える。自死という重いテーマを扱っているわりに、この映画を観終わった後印象に残るのは、遺されたものの痛みより、増田さんと蔵人君、そして太田監督の三人の過ごした時間のかけがえなのなさである。この映画で観客は、自死をテーマとして消費することなく、三人の過ごした時間の「固有性」を味わい尽くすことによって、亡者の死を悼むという、不思議で稀有な体験をすることになるのである。

■関連記事 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』太田信吾監督インタビュー http://culture.loadshow.jp/interview/watayuru-ota/
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『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
製作・監督・脚本・撮影・編集:太田信吾
出演:増田壮太、冨永蔵人、太田信吾、増田博文、増田三枝子、坂田秋葉、平泉佑真、有田易弘、井出上誠、坂東邦明、吾妻ひでお、安彦講平、他
フィクションパート撮影:岸建太朗/録音:落合諒磨/音楽:青葉市子/制作:曲淵亮、本山大/ラインプロデューサー:川津彰信/共同プロデューサー:土屋豊/製作:MIDNIGHT CALL PRODUCTION/宣伝:Playtime/配給:ノンデライコ
2013/日本/HD/121分
『クライマー パタゴニアの彼方へ』
【監督】トーマス・ディルンホーファー

【出演】デビッド・ラマ、ペーター・オルトナー、トーニ・ポーンホルツァー、ジム・ブリッドウェル

2013年/ドイツ=オーストリア/103分/シネマスコープ/デジタル/原題:Cerro Torre

字幕翻訳:秋山ゆかり/字幕監修:池田常道

【提供】シンカ、ハピネット

【配給】シンカ

【特別協力】MAMMUT SPORTS GROUP JAPANA

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  • 『夏目深雪(なつめ・みゆき)』
    批評家、編集者。雑誌やWEB、書籍に映画評、劇評、インタビュー等を寄稿。共著に『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など、共編書に『アジア映画の森―― 新世紀の映画地図』、『アジア映画で<世界>を見る 越境する映画、グローバルな文化』(ともに作品社)。「批評」と「編集」によって世界を切り取ろうと奮闘中。2011年F/T劇評コンペ優秀賞受賞。