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映画『悪童日記』公開記念「訳者・堀茂樹が語るアゴタ・クリストフのすべて」トーク採録

左から杉江松恋さん、堀茂樹さん、倉本さおりさん。

映像化不可能と言われた『悪童日記』が、出版から30年を経て遂に映画化! 映画公開を記念し、訳者・堀茂樹さんがアゴタ・クリストフのすべてをじっくりと語った。聞き手はともにライターで書評家の杉江松恋さんと倉本さおりさん。

日時:9月21日(日)

場所:Cafe Live Wire

登壇者:堀茂樹、杉江松恋(ライター、書評家)、倉本さおり(ライター、書評家)

『悪童日記』との出逢い

杉江:最初に、堀さんが『悪童日記』を初めて読まれた時の印象をお伺いします。
堀:1988年、私はパリで漂流をしておりました。18区、かなり下町で、あまり本屋さんもないような地域に住んでいました。ミステリーが好きな2人の男が、自分たちの好きな本を並べるために開いた小さな、アスファルト書店という本屋があったんです。
本好きの人たちがビールを持って集まるような場所だったんですが、そこにある土曜日の夕方立ち寄った時に、その友人でもある本屋の店主が、「掘り出し物だよ」といって薦めてくれたのが、『ふたりの証拠』だったんですね。隣に、文庫版の『悪童日記』があったんです。


『悪童日記』の方が2年前に出版されていて、先ということを知ったんで、そっちから買って読み出したんです。初夏でした。フランスは夏は夜9時くらいでも明るいんですが、そのなか読み進めていった。フランス語としてはとても簡単なんですね。あれよあれよという間に読み進めていき、「こう来るかな」と思うと、全然違う方向に行きます。驚嘆しました。オリジナルだし、構成ね。固有名詞がないのも驚きだし、何よりも私はラディカルさに驚きました。それが、「ラディカルでござい」というような、嘘っぱちのラディカルさではない。これほど、ナルシシズムの、自己陶酔のない小説があるだろうか。徹底的な、ある種の客観主義による、思い入れの投影のない、抑制された文体です。


そして、朝になるのを待って、翌日は日曜だったんですが、アスファルト書店は日曜でも午前中だけは開けていることを知っていたんで、飛んでいってシャッターが開くのを待ち構え、『ふたりの証拠』も買いました。2作目はもっと強烈でしたね。私は『ふたりの証拠』が最高の作品だと思っています。2作目もよかったので、この人は本物だな、と思いました。最後のどんでん返しときたらあっと驚きますよね。佐藤亜紀さんでさえ(笑)、本を取り落とした、と言ってました。


『悪童日記』の魅力

堀:それから日本で訳されてないことが分かったので、場末のカフェで、夕方から毎日、夏のあいだ訳しました。まぁ短い小説なのでそんなにかからなかったけどね。ワープロもない時代だから、ノートに原稿用紙のマス目を書いて、その上に書いていって。
最初感じたのは、抑制のきいた、簡素の極みというか、つまり全部剥ぎ取った状態ということ。我々の生存条件をすべて剥ぎ取った現実を生々しく、剥き出しにするという小説ですよね。それと文体とが合っている。
杉江:文体もそうなんですが、スタイルが、ごく短い文章で成り立った章が集められた、断章形式ですよね。そして、起きている出来事に関して、彼らの内面の心情は描かれず、言動と状況しか描かれないわけです。起きたことの繋がりがさほど明確ではないんですが、でも全部通して読むと、彼らが何をなしたかということが分かるようになっている。そうした断章形式が当時すごく印象深かったですよね。
堀:アゴタ・クリストフとしては、あれしかなかったんじゃないですかね。というのは、ご存知のように、彼女にとってフランス語は母語ではありません。20代も終わり頃になってようやく書けるようになった。以降、たくさん書いたのはラジオドラマの脚本です。それを積み重ねていったので、そのスタイルでやったんだと思います。一種のコントですね。
杉江:ミステリー畑ではすごく評価されている作品ですし、下手なハードボイルド小説よりもよっぽどいいと言われる。今回読み返してみて気付いたんですが、堀さんも後書きでもご指摘されていますが、この双子は「正しいことだけ日記に綴っていこう」と。客観性を担保しつつ書いていく。あれ、よく考えるとハメットの客観描写なんですね。ハメットがやろうとして、やったら小説があんな風になっちゃったことを、双子はやっている。
堀:今ちょうどここにある、映画『悪童日記』のチラシにこのようなキャッチコピーがあります。「僕らは書き記す。この眼に映る、真実だけを」。これは本当は正確ではないんですね。書いたものが真実なんですね。正しく書くと、「この眼に映る、事実だけを」なんですね。
「僕らがこう思った」というのは事実なんですね。それが正しいか正しくないかは別にして、思ったんだから思ったということです。つまり、双子が書いているのは事実、ファクトだということです。事実だって違う角度から見れば違ったりしますね。究極的には、事実、ファクトを書き記す。それが真実なんだ、とそういうことではないですかね。
杉江:『ふたりの証拠』『第三の嘘』と読んでいくと、「書き記すということは嘘を書くとことがある」、書かれたものがどれくらい信用できるのか、という問題が出てきますね。『悪童日記』の段階では、純粋に彼らの残した日記の再構成だったんですが、『ふたりの証拠』以降、実はそれがそうではないのではないか、という話になっていきます。
アゴタ・クリストフさんは、どの段階でその着想を得られたのか、『悪童日記』の段階で既に萌芽があったのか、それとも『ふたりの証拠』を書く時点で、思いついたものなのか。
堀:それは僕に聞かれても分からないですが(笑)、でも僕の印象からいくと、一見すごく普通のおばさんみたいな人なんですが、でも全然そうではないです。そのくらいのことは平気で考える人です。
豊崎由美さんがね、95年に来日した時に、人が聞かないようなことを聞いたんです。若い時に何してたか、というようなことです。その時のインタビューのキャッチコピーがね、「血を売って煙草を買ったことも」です。
平気な顔して、何やるか分からないようなところもあった人です。だから僕は『悪童日記』の頃から考えていたのではないかと思います。それは戯曲を読むと分かります。とてもからくりを作るのが好きな人です。
杉江:戯曲作家の側面が強いんですね。
堀:そうです。この人はこういう性格の人です、なんて描写はないわけです。行動だけを我々は知るわけで、それは舞台の上の役者の行動だけを観客が観るのと同じです。行動を観て、「ああこういう人だ」と知るわけです。
杉江:『悪童日記』に顕著だと思うんですが、主要キャラクター同士がどう思っているかが描かれないですよね。お母さんへの思慕が、彼らがおばあちゃんに預けられている間に、尽きてしまったのかどうか、描かれない。一緒に暮らしているうちに、おばあちゃんの方に思いが移ってしまったというのが、分かりやすい要約だと思うんですが、そうとも言い切れない。なぜお母さんが彼らを迎えに来た時、彼らはとどまることを選んだのか。それはラストシーンの行動の「なぜ?」にも繋がるわけですが。
そういったことをいっさい描かずに、一人の統一性のある人格として書くのって、難しいと思うんですが。断章形式ではありますが、通して読めば、僕らはちゃんと「僕ら」として存在しうるという。それはすごいテクニックだと思うんですが。
堀:でもそれは『悪童日記』だけではないですよね。違う書き方をした『ふたりの証拠』『第三の嘘』もそうなっています。だから断章形式だから、というよりも、やはり彼女のビジョンですよね。人生に、生存に対するビジョン。つまり、整合的な辻褄合わせをやらない。物語を作らない。素朴な事実崇拝にもいかないし、どうかすると陰謀論にいくような、理屈の自動運動で、辻褄が合っていくようなことも捨てている。そういった彼女の真実に対する態度の現れじゃないかな。
『悪童日記』の話に戻すと、あれは戦争が背景になっていますが、作者は戦争を描いた小説だとは思っていませんでした。作者はあくまで子どもを書いたんだ、と言っていました。子どもおよび子ども時代を描いたと。子どもの行動。
杉江:子どもの見方、感じ方ですか。
堀:怖いですよね。大人であろうと、子どもであろうと、突き詰めれば究極これだということを描いているんじゃないでしょうか。
いくらでも解釈が可能な小説です。よく読者カードであったのが、2人で乞食の練習をやると。で、最後に恵んでもらったのものを全部捨てちゃうんですね。だけど、「髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない」。これどういう意味か分からないですよね。形がないから捨てられないのか、捨てたいけど捨てられないのか。
事実がそのまま書いてあるだけで、それが真実ということだけど、読者がどう受け取るかは、読者のそれまでの経験と想像力、思考によって変わるかもしれない。
杉江:それは作者自身は狙ってやっていることなんでしょうか。
堀:そうね。記者会見の時に、みんな「これこれこうで、こうなんでしょう」「私はこう思いました」ってね、滔々と自分の解釈を言うわけ。そうするとね、彼女は、「ああそうですか」って言うだけ(笑)。
この淡々とした素っ気なさというか、飾り気のなさ。強いですよね。

映画『悪童日記』をどう見たか

倉本:このすばるの10月号の、ヤーノシュ・サース監督のインタビューを読むと、アゴタ・クリストフさんは脚本に関してもほとんど注文はなかったそうです。
堀さんは映画はどのようにご覧になりましたか。
堀:一読者、熱狂的なファンとして観ましたが、よかったと思いますね。翻訳者としては、隅々と知っているものがどう映像化されるか、やっぱり心配ですからね。
映画と小説とはジャンルが異なるので、そのことをふまえれば、一つの「解釈」「演奏」として、「見当違いじゃないか」と思うことは全くありませんでした。もちろん色々端折られていて、スピーディーですよね。小説読んでない人が分かるのかな、とちょっと心配になったところはありましたけど。
変なものがくっついてないしね。映像も魅力的です。
杉江:僕らは日本語字幕でしか分からないんですが、台詞回しは原作からそのまま取っているんでしょうか。
堀:そうですね。映画字幕って、字数制限があるから普通の翻訳と違うはずなんですけど、わりと僕の訳文と同じでしたよね。
杉江:ほぼ忠実に再現されているらしいですね。
映画だと映像が出てきますので、小説では特定されていない舞台設定を、きちんと描かなければいけない。名前はもちろん映画にも出てこないんですが、いつの時代の戦争で、場所も特定できるようになっています。匿名性のある小説なんですが、まぁそれは仕方がないし、僕は許容範囲かな、と思いました。
堀:そうね。個別具体性がある顔が出てくるし。
杉江:双子を、実際の双子が演じているんですよね。
倉本:監督が東欧の村で見つけてきた、素人の双子です。
私は小説を読んで、特定の顔のイメージが湧いたということはなかったんですが、でもこの映画の双子はバシッとはまりましたね。
杉江:僕もこの子たちの顔は納得しました。
堀:話は少し変えられていますね。ただ、それも含めて私は非常に好感を持ちました。この監督の解釈は、僕の解釈とずれていないんじゃないかと思いました。


【Story】 第2次世界大戦下、双子の兄弟が「大きな町」から「小さな町」へ疎開する。疎開先は、村人たちから「魔女」と呼ばれる祖母の農園だ。僕たちは、粗野で意地悪なおばあちゃんにコキつかわれながら、日々の出来事を克明に記し、聖書を暗唱する。強くなることと勉強を続けることは、お母さんとの約束だから…。
ヤーノシュ・サース監督作品『悪童日記』
10/3(金)、TOHOシネマズシャンテ、新宿シネマカリテ他全国順次公開
■公式サイト
http://akudou-movie.com/agota-kristof
■関連記事
http://culture.loadshow.jp/topics/akudo/
取材・構成: 夏目深雪
『悪童日記』
監督:ヤーノシュ・サース/原作:アゴタ・クリストフ 『悪童日記』ハヤカワepi文庫
出演:アンドラス・ギーマント、ラズロ・ギーマント、ピロシュカ・モルナール
2013年/ドイツ・ハンガリー合作/ハンガリー語 デジタル5.1ch/シネマスコープ/111分/PG-12/仏題:LE GRAND CAHIER/
Ⓒ 2013 INTUIT PICTURES - HUNNIA FILMSTUDIO - AMOUR FOU VIENNA - DOLCE VITA FILMS
  • 『堀茂樹(ほり・しげき)』
    アゴタ・クリストフ著『悪童日記』等の翻訳者、慶應義塾大学SFC教授。
  • 『アゴタ・クリストフ』
    近隣の村の高校を卒業後、詩を書きはじめる。歴史教師と結婚するが、1956年、反共産主義の暴動の後に夫がジャーナリストとして活動のかどで投獄されるのではないかと心配し、哺乳瓶、数枚の衣服、2冊の辞書だけを持って子供とともにハンガリーを逃れた。森を通ってオーストリアに着き、ウィーンの近くの難民キャンプに到着した。夫が大学で奨学金をもらえることになってスイスに移住。夫は生物学を勉強し、アゴタはフランス語を学びながら、生計を立てるために工場で働いた。 亡命から12年後、フランス語で書かれた2つの作品を発表。「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」の三部作で、世界的に有名な作家となる。