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鼎談採録 石坂健治×野崎歓×夏目深雪「アジア映画の境界線」 vol.4

『アジア映画で<世界>を見る 越境する映画、グローバルな文化』(作品社刊) の刊行を記念して、トークショー付上映会が開催された。最終回の2/2に濱口竜介監督の『THE DEPTHS』が上映された後、編者の三人で行われた石坂健治氏、野崎歓氏、夏目深雪氏のトーク採録を掲載!

新たな日本を取り巻くアジアの状況と批評の地平

夏目 フランス映画と香港映画を同じ密度で論じられるのは、本当に、野崎さんくらいしかいらっしゃらないのではないかと思います。野崎さんの論考について面白い話があるんですよ。

石坂さんは若い頃からのアジア映画好きなので、フランス映画からアジア映画に入ったような人に、「君は本当はフランス映画好きだったんだろ」というような発言もあったと思うんですが…。野崎さんの論考が送られてきて、私も石坂さんも読んだんですね。ちょうど石坂さんも論考の提出締切だったので、「どうですか」って電話したんですが、その時、「野崎さんの論考が素晴らしすぎて、打ちのめされて、もう俺は書けない」って。
野崎 (笑)。それは忙しすぎて書けないことの言い訳にされたんですよ。
石坂 私は今回長文論考は書いていないので大きなことは言えないんだけれども、野崎さんの論考に打ちのめされたのは事実です。ゴダールの中国へのアプローチから始まるじゃないですか、野崎さんのは。われわれにとって中国って、第五世代から始まって、中国の政治や社会が本当はどうだったかっていうのは徐々に分かってきたわけですよね。ゴダールもそうだけど、われわれもある時期まで、内実も知らずに勝手に愛して「毛沢東万歳!」ってやってきたわけですよ。そこは本気で。そこで近年になって中国の中からの発信が出てきた時に、この齟齬は実はものすごいもんだな、という。それが今でも映画の世界では理屈として解決してないんじゃないかと思い知らされた。
野崎 歴史が必ずしも同じスパンで動いていかなくて、あるところで不思議な相互関係が起こるという現象が、最近よく視界に入るんです。この本でも萩野亮さんが時間差の問題を歴史的な視点から書かれていて、非常に勉強になりましたが、例えば中国の現代ドキュメンタリーが小川プロの映画と相似形である、という記述であるとか。あと福間健二さんの論考も非常に魅力的ですが、アピチャッポンの映画のヒロインを観ていると何故か増村映画のヒロインを思い出させる、とか。この辺りがこの本のひとつの読みどころではないか。

福間さんの感覚は本当に独特に冴えてますよね。では王兵(ワン・ビン)は誰か、というと成瀬巳喜男であるとかね。僕も成瀬は大好きですが、成瀬はウォン・カーウァイかな、と思っていたんですけどね。
夏目 そうですね。私も一番感銘を受けたのは福間さんの論考です。女性は映画とっては欠かせないものですよね。さらにこの本はアジア映画の本です。アジアということを考えると、女性のことをテーマとして扱うのはある意味で必然なのに、福間さんの論考以外に、そのことを真正面から扱った論考はありません。さらに福間さんの論考は、真正面から扱っていながらも、真面目になりすぎず、常にずらし、流れ、乱反射していく。その筆致の豊かさは素晴らしいと思いました。

私もアジア映画に入ったのはレスリーがきっかけだった。そもそも、アジアのことを考えるのは女性のことを考えることとイコールだったはずなんですね。
石坂 レスリーはまさにジェンダー的に揺らいでいる人だからね。
夏目 そうですね。私自身がそういった論考を書かねばならなかったのでは、と反省させられました。アジア=女性、という図式自体は、既に色々な人が書いていて、手垢のついたものです。ただその中でも、映画は作り続けられ、図式は変化し刷新され得るのだ、という勇気をもらいました。

野崎さんは市山さんの論考とショーレさんのインタビューに感激されていらっしゃいましたが。
野崎 ええ。論考ももちろん力作ぞろいです。『アジア映画の森』は情報的なところが多くて、それはそれで便利なんですが、この本は『アジア映画の森』ははるかに凌ぐパワーを持っています。本当に読み応えがあって、今の時代にこんなにゴリゴリと評論で押してくるなんて、と僕は感激しました。

ただね、やっぱり読者は一部の評論好きの人に限られてしまうのかな、と思わないこともないです。そのなかで、アジア映画ファンにとっては、侯孝賢や賈樟柯映画のプロデューサーをずっと務められてきている、市山尚三氏によるドキュメントは、本当に興奮なしには読めないですよ。今後映画の歴史を研究する人にとっても第一級の資料ですよね。一番の当事者が語っているわけですから。僕はやっぱりプロデューサーってすごいなぁ、と思いました。侯孝賢の『憂鬱な楽園』をカンヌで上映している時に、人がガンガン帰っていくなかで、市山青年は一人感動しているわけですよね。そして侯孝賢に映画を撮らせるわけですが、紙切れ一枚のシノプシスしか送ってこないわけですよ。でも企画を通すには脚本がいる。その時市山青年は一体どうしたか、とかね。
石坂 なんか野崎さん、淀川長治さんみたいになってきましたね(笑)。
野崎 いやいや(笑)。それで国際共同製作の現場のなかで、いかに物事が噛み合わないかというのは、先ほどから話にも出ていますが、「それを凌いでいくのがプロデューサーなんだ」と市山さんははっきり仰ってますね。それで僕はアジア映画の観客も、そうあるべきなのではないかと思いますね。いろいろ観ていて分からなかったり、感覚が逆撫でされることもあるかもしれませんが、それを凌ぎながら観ていくべきなのではないかと。

もう一つ僕が感動したのは、TIFFやフィルメックスでイランの監督のゲストが出てくると、必ず通訳をされているショーレ・ゴルパリアンさん。彼女のインタビューを夏目さんがされています。もう30年くらい日本にいらっしゃって、日本とイラン、両方のことをよくご存知であり、キアロスタミやアミール・ナデリとも一緒に仕事をしているショーレさんのインタビューは、とにかく面白いです。イランと日本はよく似ていて、「一度踏んだら離れられない、魔法の土みたいなのよ」とショーレさんは仰います。そう言われるととても嬉しくなるんですが、でも一方で、日本の現在に対して非常に辛口です。それらが二つの文化の間に立つという面白さ、醍醐味なのではないかと思います。
夏目 それでは少し角度を変えて、野崎さんは第二部の座談会、石坂さんは第三部と、それぞれあまり関わっていらっしゃらない部分に、この機会に感想をお伺いしたいと思います。

石坂さんは第三部、つまりアジア映画を専門とする方以外に書いていただくということに関して、当初はあまり乗り気ではなかったと思うんですが…。
石坂 あまり広げ過ぎて分厚くなったらどうするのかな、と思っていたんですが、結果的にはごめんさない、という感じです。
夏目 まぁ確かに「越境」というとね、最近の流行でありながら難しいところであり、安易なものも、失敗もあるとは思うんですが。
石坂 まぁあまり普段アジア映画を観たりね、語ったりしたことのない人に書いてもらうという時に、地域研究者的なアプローチだったらある程度想像がつくんだけど、そうではなくて、詩人とか、演劇畑の人とか、それは本当に新鮮な知見が得られましたね。掛け値なしに面白かったです。
夏目 「越境」というのは野崎さんの得意分野でもありますね。野崎さんは「成功する」という確信があったから賛成して頂いたんですか?
野崎 第三部は、この本でも特に力の入っている部分ですよね。
夏目 私も一番面白いと思います。
野崎 つまり、第三部が一番テーマに沿って、論文をかっちりと書いています。でも、問題提議という点では、第二部の「3.11以後の映画の視座」という座談会が優れていると思います。答えのない問題が次々と出てきて、夏目さんが議論にのせたかった問題が全てここに放り込まれているような気がしますよね。必ずしも、それに対する説得的な答えがないとしても、その熱っぽい議論は迫力があって圧倒されました。

この座談会で「3.11以後の映画」として褒められているのはほとんどドキュメンタリーですね。さっきも言ったけれども、物語映画の空々しさというものが露わになってきてしまったということだと思います。映画の脆弱さ、ということです。それは3.11後、活字メディア以上に、津波に関する映画が上映中止に追い込まれたことにも現れていたと思います。イーストウッドの『ヒア・アフター』にしても馮小剛(フォン・シャオガン)の『唐山大地震 想い続けた32年』にしても、上映自体が「自粛」されてしまうわけですね。それが映画にとってどういうことなのか、考えてみたいと思っています。
夏目 最後に世代論的な話をしますが、この本には、4つの世代が混在しています。30代前後が萩野亮さんと渡邉大輔さん、40代前後が私と金子遊さん、50代前後が石坂さんと野崎さん、そして60代前後が四方田さんと福間健二さん。それぞれ代表させるとそんな感じですね。でその中で、40代前後の私と金子さん、今回このイベントもこの二人が企画していますが、その二人が社会派の方にガッと行ったというのは、図式としては言えるんじゃないかと思うんですが。お二人から見てどうでしょうか?
野崎 僕は去年、日本におけるトリュフォーの受容というテーマで調べてあるところに書いたんですね(A Companion to François Truffaut, ed. By Dudley Andrew and Anne Gillain, Wiley-Blackwell, 2013)。その時、トリュフォーの映画が新作として公開されたときの映画評をいろいろ読んで。当時の評論家の本に出てくるトリュフォーのイメージも探っていったんですけれども。トリュフォーの映画はロメールなんかに較べると、比較的タイムラグなく日本に入ってきているんですね。驚いたのは、トリュフォーは心理描写はうまい、でも思想がない、ということを、ほとんどの批評家が異口同音に、決まり文句のように書いているんですね。そこで言われている「思想がない」というのは、要するに左翼的な政治思想がないという意味なんです。ゴダールにはまだ見どころがあるけれども、トリュフォーはブルジョワ的で社会性がない、左翼的思想を鮮明にしないというところで、ぶっ叩かれるんですよね。しかも面白いのは、『突然炎のごとく』とか、キネ旬のベストテンでの順位は高い。みんな実は好きなんです。でも、評を書く時には、叩かないといけない。

それがガラッと変わるのが72年以降なんです。つまり、浅間山荘事件以降、「思想がない」という言い方が消滅する。僕の世代はそのころから映画を一生懸命観始めて、蓮實さんがけなしていると「これはダメな映画なのかな」と嫌いになろうとしたりする(笑)、暗い青春を過ごしたわけなんですが。

つまり、72年以前というのは、「社会的なメッセージ性が明確かどうか」というのは、映画を評価するに当たって死活問題だった。そうした観方に対する反動がずっと続いてたんじゃないでしょうか。ここにきて、この本にあるような議論が、映画をめぐって新たに立ち上がってきた。すごくいいことだと僕は思います。映画の社会的な立ち位置とか、イデオロギーを含めた評価の仕方を探る、というのは必要なことでしょう。ただし、表層批評的な人たちが、右だったかというと全然そんなことない。一種の審美主義に走っているように見えても、心はみんな左だったんだから。「思想性」はやっぱり、あったんです。
夏目 スタイルでやっていた、ということですか?
野崎 つまり、映画それ自体の愉しみというものを抑圧する批評があまりに多かったので、それに対する怒りがすごかったんだと思います。でもさすがにその時代は終わりました。だからようやく今、しっかりした批評ができるんじゃないか、という気がしますね。
夏目 そういう予兆が感じられますか、石坂さん。
石坂 一回りしたという感じはしますね。先ほども言いましたが、アジアは国によっても違うし、作品を評価する基準も常に刷新していかなければいけません。最近は中国の人と話していると、日本との国家的な軋轢の影響も感じることがあります。作家たちも実際に反日教育を受けていたりもするので、現場では映画は国境を越え、みんなを繋ぐという牧歌的な想いだけでは対応できないところもあります。
夏目 この本でそのような状況を理解して頂きつつ、新たな批評の地平を感じて頂きたいですね。本日はどうもありがとうございました。
2014年2月2日、映画美学校試写室にて

構成:夏目深雪

特集「アジア映画で<世界>を見る」 2014年1月26日(日)・2月2日(日)
企画・夏目深雪、金子遊
主催・アテネ・フランセ文化センター
  • 『石坂健治(いしざか・けんじ)』
    1960年東京生まれ。早稲田大学大学院で映画学を専攻。90~2007年、国際交流基金専門員としてアジア中東映画祭シリーズを企画運営。07年より東京国際映画祭「アジアの風」(13年より「アジアの未来」)部門プログラミング・ディレクター。11年開学の日本映画大学教授を兼任。共著に『ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話』(現代書館)、『ひきずる映画』(フィルムアート社)など。
  • 『野崎歓(のざき・かん)』
    1959年新潟県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は仏文学、映画論。著書『異邦の香り ネルヴァル「東方紀行」論』(講談社、読売文学賞)、『フランス文学と愛』(講談社現代新書)、編書『文学と映画のあいだ』(東京大学出版会)、訳書ネミロフスキー『フランス組曲』(共訳、白水社)、トゥーサン『マリーについての本当の話』(講談社)、ウエルベック『地図と領土』(筑摩書房)など多数。
  • 『夏目深雪(なつめ・みゆき)』
    批評家、編集者。雑誌やWEB、書籍に映画評、劇評、インタビュー等を寄稿。共著に『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など、共編書に『アジア映画の森―― 新世紀の映画地図』、『アジア映画で<世界>を見る 越境する映画、グローバルな文化』(ともに作品社)。「批評」と「編集」によって世界を切り取ろうと奮闘中。2011年F/T劇評コンペ優秀賞受賞。