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対談採録|濱口竜介+藤井仁子「森崎東の分からなさをめぐって」

1……印象

藤井:今日は、私が編者を務めました『森崎東党宣言!』(インスクリプト、2013年11月刊)の刊行記念イヴェントとして、ここ神戸映画資料館で、『喜劇 特出しヒモ天国』(1975)の上映と合わせて、濱口竜介監督とお話しする機会を設けていただきました。今年一挙に5本の映画が公開された濱口監督(『親密さ』と4作からなる「東北記録映画三部作」)には、今回の本に『ニワトリはハダシだ』(2004)をめぐる論考を寄稿いただいています。その濱口さんとご一緒に、森崎東の映画について語ってみたい。まずは、今日あらためてご覧になって、率直なところをお伺いできれば。
濱口:最新作『ペコロスの母に会いに行く』(2013)が25作目で、そのフィルモグラフィのすべてを見ていないこともありまして、年忘れということで、若造の言うことと聞き流していただきたいのですが……、『特出しヒモ天国』に限らずどれを見ても思うのは、なんでこんなことをやっているんだろう?というところですよね(笑)。監督にも色々な種類があって……今になって言いますが、実は、僕はこの森崎東という監督のことが全然分からないんです。
藤井:映画を撮っている濱口さんからしても頭の中が分からない?
濱口:そうですね。森崎東が凄い監督であることは大前提としたうえで、ですよ。作品を見て、例えばジョン・カサヴェテス、ジャン・ルノワール、あるいはオリヴェイラといった僕の好きな監督をちょこちょこ連想させる瞬間があるんです。だけど、結局のところ、どれとも違う。何にも似ていない。カサヴェテスを見ていると、どこでスタートを掛けてどこでカットを掛けているのかが分からないという気持ちになるんです。もちろん実際はカットの積み重ねで成立しているわけですが、全部が同じ時間の流れの中にある一つのシーンとして見える。森崎東の場合は、スタートとカットの音が結構聞こえる。カットごとにスタートを掛けているんだなと。ただカットに関しては、しばらくカットを掛けずに続けているのかしらと、『特出しヒモ天国』などを見ていると思ったりもするのですが。つまり映画を撮っている様(さま)がそのまま映っている。演技に関してもそうですよね。といっても、いわゆる「真に迫る」という類の演技ではなく、戯画化、強調されているというか。色々な監督がいるなかで、「迫真の演技」といったものを目指さない監督は沢山いるとは思います。ブレッソンとか小津とか、演技そのものを表出しない方向に持っていく、役者の感情を出していくのではなく削っていく、またはカメラの位置関係でシーンを作っていくというタイプの監督ですよね。一方でカサヴェテスや溝口健二は、迫真の演技を追求するというか、本当にこれは起こっているんじゃないか、今この場でこの人たちの感情が存在するんじゃないかと感じさせる。森崎東はそれともまた違うわけですよ。同じような映画が思い付かない。まったく悪口でもなんでもないのですが、何を考えてこういうことをやっているのかが全然分からない。
藤井:見ていて「この作り手はこれがやりたかったんだな」と分かる映画というのもありますが、森崎さんの場合はそこが非常に見えづらい。逆に言えば、頭から尻尾まで全部やりたい、それがギュウギュウに詰まっているということだと思うんです。濱口さんは『ニワトリがハダシだ』がお好きだということで、今回ご寄稿いただきましたが……。
濱口:森崎作品では『ニワトリがハダシだ』を一番最初に見たんです。10年ほど前ですね。それで、「ゼロ年代」というものがもしあるならば『ニワトリがハダシだ』はゼロ年代最高の日本映画だと思っています、と編集者の方にうっかり言ってしまったがために、何も分からないままこの論考を書かなくてはならなくなったわけですが(笑)。いや、その言葉に何の嘘もないんです。ただそれが何なのか……。『ニワトリがハダシだ』の時点で十分ハチャメチャな映画だと思っていたのですが、その後に『特出しヒモ天国』も含めて「喜劇」作品を見ていくと……。
藤井:『ニワトリはハダシだ』はきれいにいっているほうです。
濱口:そうなんですよ、だから本当にびっくりしたんです。これは一体何なのか、どうしてこういうことになっているのか、今日はむしろ藤井さんにお訊きしたい(笑)。

2……脚本と演出

藤井:論じやすい作家と論じにくい作家がいて、間違いなく森崎東は論じにくいほうです。いくつか考えなければならないポイントがあって、一つは脚本が大変重要な監督なんですよね。森崎さん自身脚本家でもあるわけですし。簡単に経歴をお話しすると、1956年に松竹京都に助監督で入って、京都撮影所が閉鎖になったときに大船撮影所に移り、その際に脚本部に配属される。そこで山田洋次監督の初期の喜劇などの脚本を書かれた後に、69年に『喜劇 女は度胸』で監督デビュー。ほとんどの森崎監督作品でご自身が脚本も書いていますし、クレジットされていないものもかなり書き加えたり書き変えたり、あるいは事前の段階で脚本家と濃密なやり取りをなさったと聞いています。
濱口:ある意味ではヒッチコックみたいな。
藤井:そうですね。見つづけていると、このシーンは森崎さんが書いているのかなと分かったりもする。この脚本の問題というのがまずある。つまり、映画のかなりの部分が脚本の段階で出来上がっているわけですね。それって普通は映画ではあまり良いことだと思われていない、撮るまでもなく脚本の段階で完成されているということは映画的でないと思われていたりするじゃないですか。しかし森崎さんの場合は、脚本の段階で結構出来上がってしまっている、にもかかわらず、そのことがネガティヴな要素にまったくなっていない。それが森崎映画の語りづらさの一つのような気がします。
濱口:「出来上がっている」というのは、人物の感情のラインも含めて辻褄は結構分かるということでしょうか。
藤井:辻褄じゃないと思いますね。
濱口:それは……。
藤井:辻褄は合わなくて平気なんですよ。それこそ『ニワトリはハダシだ』だと、ベンツはいつ海に沈めたんだ?とか(笑)、矛盾点は色々あると思うんですが、平気なんですよね。
濱口:脚本を作る段階で何を最も重要視しているのでしょうかね……。
藤井:濱口さんも若干の例外を除いてご自身で脚本を書かれますね。
濱口:そうですね。いわゆる商業映画の脚本を書いたことはありませんが、僕の漠然たるイメージとしては、商業映画は誰かがお金を出して作るものである以上、皆が読んで、これはこうなってこうなるから面白いんだねというのが全体で共有されることが、脚本の主たる目的という気がしているのですが。
藤井:そうでないと企画が通らない。森崎さんは元々は撮影所の人ですからね。先ほどの経歴を続けると、69年に『女は度胸』でデビュー以降、そのまま5年ほど松竹で立て続けに監督されて、理由は色々あるようですが『街の灯』(1974)を最後に契約打ち切りとなり、次は東映で『特出しヒモ天国』を撮る。松竹を離れて撮った最初が『特出しヒモ天国』。その後は、ほとんど自主映画と言っていい『黒木太郎の愛と冒険』(1977)を撮り、80年代の撮影所「以後」を生きていくことになるわけです。松竹でのキャリア後期においては衝突することも多かったらしく、東映で撮った際にはずいぶんと解放感があったようです。それは映画にも出ていると思います。
濱口:そうですね。
藤井:皆さん、お気づきになりましたかね、芹明香が屋台で焼酎を頼むシーンで、右端にいるのが渡瀬恒彦。芹明香の隣が深作欣二監督ですね、最後まで暴れてた人です(笑)。頭の禿げた屋台の大将が工藤栄一監督。松竹を快く思っていない東映の監督さんたちが、しかし一人オモロいヤツがいるぞとシンパシーを持っていたのが森崎東で、その森崎が東映京都に来るということで、皆で歓迎している。
濱口:それまでも親交があってということではなく。
藤井:あの森崎東が来てるから会いに行こうと現場に行って、そのまま出ちゃって大暴れしている(笑)。東映のああいうカツドウ屋といいますか、そういう方々も含め同業者に尊敬される人なんですね、やはり。
濱口:森崎さんが「脚本の人」と言われると意外な気もします。森崎映画を見て最初に思ったのは、相米慎二ともどこか通じるかもしれない「身体性」なんですよね。
藤井:転んで、もんどりうって、倒れて……。
濱口:なんでこんなに人を動かせるのか、人の動かし方とカメラの置き方をなんで知っているのだろうかと。助監督時代はそんなに長い期間ではないですよね。
藤井:この世代にしては豊富な経験というほどではないかもしれません。しかし森崎東の演出力というのは松竹では最初から定評があったようですね。色々な方にお話を伺ったのですが、そのような演出力をどこで身に付けたのかがよく分からない。
濱口:カメラ位置に関しては森崎さんご自身が決めるものなんでしょうか。
藤井:言わないみたいです。ファインダーを覗くなんてことはもちろんないし、こういう画でないと嫌だというようなことはまったく言わない方のようです。
濱口:確かに、このカットの次はこのカットでないと嫌だというようなことはないんだろうなとは思います。……そう、率直な感想を言うと、やらなくていいことをすごく沢山やっているという印象なんですよね(笑)。僕の浅知恵では、今の抜きは要るかな?とか、そんなズーム要るかな?とか、いわゆる「映画的」というところからも逸脱していく。映画に「汚しを掛けていく」とでも言いましょうか。
藤井:単純に下ネタも多いんですけどね(笑)。
濱口:なんだろうな……本当に分からないんですよね。すうっとワンカットで撮っちゃうこともありますよね、そういうことも出来てしまうわけで。人を配置してクルっと振り返ってそれで終わりというような。ところがわざわざ急にクローズアップを入れてみたりとかもあって、それ本当に必要かな?と。
藤井:演出の発想ということで言えば、例えば、代表作『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985)の冒頭シーン。中学校の修学旅行の積立金を盗んで逃げるという話で、ほとんど何が起きているのか分からないうちにアクションが始まる。あれは脚本段階から書き込まれているのですが、最初に画ができていないとああいう脚本は書けないですよね。
濱口:そうですね。
藤井:共同脚本の近藤昭二さんに伺うと、そこは森崎さんが書いたと仰有っていました。やはり事前に画が浮かんでいる人でもある。
濱口:イメージを持って現場に臨んでいる人でもあると。
藤井:カバーが掛かったままの車がいきなり急発進して、ブロック塀でカバーを擦りながら走り出すという、興奮せざるを得ない活劇的なオープニング。画が浮かんでいるとしか思えないわけです、ああいう発想が湧くというのは。
濱口:現場で即座に対応できるレベルを超えているというか、ちゃんとアクションができる人を用意しなければならないし、カメラポジションも見つけておかなければならないですから、思い付きだけでやっているとは思えないわけですが、しかし、思い付きだけでやっているようなシーンも散見されるし……。これが言葉を失うということなのか、なんでこんなことをするのだろうと考えてしまうと途端に失語に陥らざるを得ない。
藤井:論じる側は言葉を失うわけですが、映画はむしろ過剰なんですよね。

3……観念と肉体

藤井:その過剰さとも関わってくるもう一つ別のポイントとして、森崎さんは「政治的」な方でもあるわけですね。遅れてきた戦中派としての戦争へのこだわりも強い方ですし、ご自身の家庭の事情もある。端的に反権力の資質を持った方で、そのメッセージ性に熱く心打たれる部分があるのも間違いない。しかし普通は、メッセージ色の強い映画というのはあまり映画として良くないと思われているじゃないですか。
濱口:そうですね、一般的には。
藤井:なんで森崎東だと良いのか。単に言っている内容が正しいからなのか。
濱口:ただ、説教臭さには到らない。
藤井:説教臭い理想主義は徹底してバカにされる。『喜劇 男は愛嬌』(1970)の寺尾聡のような。
濱口:例えば大島渚だと、主義主張というものが映画と渾然一体になってくるところがありますよね。森崎さんの場合は、政治的なことを扱うところが確かにあるわけですが、ただ一方で、本当に政治に興味があるのだろうか……ということも思うんですよね。
藤井:そこなんですよ。
濱口:脚本段階では興味がおありなのでしょうが、現場レベルでは政治に興味がないのではないか、という感じがするんです。
藤井:『党宣言』から『ニワトリはハダシだ』まで、実現しなかった企画も含め、一緒に脚本を書いておられた近藤昭二さんは、「731部隊」のプロフェッショナルな研究者でもあるし、冤罪事件に詳しいジャーナリストでもある。森崎さんからすればネタの宝庫で、それらを吸い尽くし使い尽くしてもいる。その近藤さんに言わせても、森崎さんが政治運動や社会運動をやるようなタイプとは思えないと。一貫して政治的なこと、社会的なことに関心を持っているし、それにしか興味がないと言ってもいい人なのに、大島渚にとっての政治への関心とはまた違うんですよね。
濱口:先ほど「家庭の事情」という話が出ましたが、お兄さんが……。
藤井:森崎湊というお兄さんがいらして、誰からも尊敬され愛されるような優秀な方だったのが、敗戦の翌日8月16日に割腹自殺された。森崎東からすれば、これがずっと理解できない。森崎さんなりに考えていることはもちろんあるわけですが、本当に実感をもっては分からないと。国家権力に殉ずるような人ではなかったはずの兄がなぜ腹を切らなければならなかったのか、そのことにずっとこだわっている。『黒木太郎の愛と冒険』は、森崎さんを考える上でおそらく一番重要な映画で、その中で三國連太郎演じる父親が復員服のまま町に現れて割腹自殺するシーンが出てくる。その遺書は森崎湊のものなわけです。実兄の記憶を投影して作られた映画で、そうした話を前提として知らないと何がなんだかよく分からない作品でもあるのですが、つまりそういうこだわりなんですね。プライベートなことと天下国家の問題が直結しているような。
濱口:完全にそこで繋がってしまうという。
藤井:極端に言えば、戦争の問題は結局お兄さんに繋がるんですよ。『ペコロスの母に会いに行く』に到るまでそうです。『ペコロス』では、戦争の時代を生き抜いた、今は認知症になった母親の「記憶」というのが問題になっているわけですが、これもお兄さんの件に通じているはずなんですよね。
濱口:そう考えると少し納得がいく感じはします。社会的なことを扱ってはいるのだけれども、それがいつも肉体的なレベルで映画には焼き付いている。で、どちらかと言えば後者の人なのではないかなと。現場の人というか。観念の人だということも今回の本の中で取り沙汰されていますが、結局その観念をいうものはずいぶん振り落とされて感じる。
藤井:出発点は観念的な、観念の固まりのような人だと思うのですが、出来上がった映画はいわゆる観念的な映画というものとは違う。

4……悪と赦し

藤井:でもね、反権力的なメッセージ性、政治性ということを言い出すと、映画としては「悪」をどう描くのかという問題に直結するんですよ。濱口さんがお好きだという『ニワトリはハダシだ』はまさに「巨悪」を扱っているわけですが、あらためて森崎さんの映画を振り返ると「本当に悪いヤツ」というのがあまり出てこないんです。この点はどう思われますか。
濱口:『ニワトリはハダシだ』では、巨悪というか、天皇から認証を受ける検事総長が実は賄賂を受け取っているという証拠をめぐるドタバタらしいということが、2回くらい見ると(笑)、腑に落ちてくるんですが、見ていて思うのは、結局のところ皆魅力的に撮られてしまっているということですよね。こいつらにも事情があるんだよというふうに撮ろうとしているとも思われないのですが、結局生き生きとして描かれてしまう。
藤井:そこで伺いたいのは、濱口さんの映画にも悪人ってあまり出てこないですよね。ほぼ出てこないと言っても良い。考えてみるに、濱口竜介の映画で起きる一番の悪事って、浮気なんですよ(笑)。
濱口:……ええ(笑)。
藤井:浮気以上の悪を見た記憶がない。人間の卑劣な部分を描いたというようなことはないですよね。なぜそうなるのでしょう。
濱口:僕の場合はもっとスケールの小さい話ですが、こいつらがこうするのにも事情があるよな、ということで脚本を書いていて……、絶対的に登場人物を蹂躙するような悪を書き切れないところがあります。
藤井:でも、悪人を出したほうが話を作るのは楽じゃないんですか。素人考えかもしれませんが。
濱口:これはやっぱり現場のことを考えるというか、この悪を誰が演じるのかという問題がつねにありまして。これが黒沢清さんであれば、『CURE』(1997)における萩原聖人のような、一気にそういうレベルにまで持って行けるのかもしれませんが。ある人間をある悪として描くというのは、映画の力を総結集しないとできないことという気がします。役者はもちろん、カメラ、照明、音楽、すべてでもって「その悪が在る」ということにしていかないとできない。だから、役者の力ということだけではないのですが。ただ、色々な役をこなしていくと段々とその役者さんの内面性が消去されていったりしますよね。一人の人間というよりも、ある顔ある身体として見えてくる。そういう方とお仕事できる機会があれば……とは思いますね。
藤井:森崎さんは魅力的な俳優をつねに沢山使われるわけですが、いわゆる当て書きのようなこととはちょっと違うみたいなんですね。この役者さんに出てもらいたいからこういう役を作って、という発想ではなく、脚本を作っていくうちに、これは原田芳雄さんこれは倍賞美津子さんだね、となっていくようです。
濱口:正直に言うと、僕は森崎映画を見ていて、例えば90分のうち80分くらいまでは結構受け入れがたいなと思いながら見ているんです。目の前で起きていることが受け入れがたいと。ところが最後の10分くらいになって急に人物が立ち上がってくる瞬間がある。『特出しヒモ天国』で言えば、芹明香が葬式で脱いで、「黒の舟唄」を歌いながら踊り出す場面。その時、なるほどこれで芹明香だったのか、という気持ちになる。そもそもこんな役を演じられるはずがないだろうという役を振られた人たちが段々とその役になっていく、という感じがあります。この役を振られても困るだろうなと、誰を見ていても思うんです。こんな役を一人の人間として演じろと言われたら結構困らないかしらと。
藤井:この人であれば楽にやれるだろうと、ただ役を配分しているだけとは違うと。
濱口:ええ、「キャスティング」って元々「投げる」という意味ですが、その人に「これ取って来い」と言って投げているような役の振り方だなと感じます。
藤井:……結構突っ込んだ面倒な話もしようと今日は思っていたわけですが、本当の悪が出てこないということは、森崎東の映画に「赦し」はあるのでしょうか。
濱口:逆にというか。
藤井:ええ。本物の悪があってこそ、恩讐の彼方に突き抜けた赦しというものが出てくると思うんです。森崎さんは不正に怒っているし、怒っている映画を実際に撮っているのですが、それは色々な怒りを突き抜けた、超えたところにまで行っているのかどうか。
濱口:もし誰も悪くないのだとしたら……ということですよね。
藤井:悪くないのだとしたら、このままでいいじゃんということになってしまうわけであって、現状への憤りはどこに行っちゃったの?ということになるじゃないですか。
濱口:そうですね……。森崎東映画の何とも言えない、抜けが悪いとも言いませんけども……。

5……怒りと涙

藤井:この世の不正に怒るということと、皆魅力的な人間だということは、森崎東においていかに両立できているのか、あるいはできていないのか。そんなことをですね、今回の本を出した後、ずっと考え続けていて、どんどん面倒くさいところに入っているんですが(笑)。
濱口:その面倒くささを少しだけ開陳してほしい(笑)。
藤井:すべての人物が魅力的であるというのは、悪を擬人化していない、こいつをやっつければ解決という作りになっていないということでもある。それが社会構造自体の問題になっているのは確かです。ただ、権力が具体的に作用するところには関心が向いていないようにも感じる。具体的に言えば、裁判とか法廷のシーンってほとんどないですよね。おそらくテレビドラマの『帝銀事件』(1980)くらいしかない。脚本家の近藤昭二さんはジャーナリストで冤罪事件のプロですから、そういう冤罪ネタをいっぱい持っている方なわけです。『ニワトリはハダシだ』では知的障害を持つ子供を犯人に仕立て上げてという話が出てはきますが、そこを具体的に追求して描くという気はたぶんない。だから本当にそういう社会構造の歪みを描く気はあるのかなと思わないでもない。そもそも『ニワトリはハダシだ』のラストって、あれは何も解決していないんですよ。石橋蓮司さんが素晴らしいわけですが、その石橋さんが「俺が責任をもって頑張る」と言っているだけなんです。
濱口:ええ、心意気だけが。
藤井:『党宣言』も何にも解決していない。全然関係ないタイミングで船が出て、結局どこにも行けず。『森崎東党宣言!』では青山真治監督にも『党宣言』論をご寄稿いただいているのですが、「出航せず」と題されていて、そう、出航せず、なんですよ。
濱口:負け戦と分かっているのに。権力との闘いというのはそもそもそういうものかもしれませんが。
藤井:『特出しヒモ天国』も最後は捕まっているわけですし。京都のストリップはどうなるんだと(笑)。
濱口:カサヴェテスもいつも何の解決もなく、結局生きていかなくてはならないということになるわけですが、カサヴェテスに似ている手触りというのはそういうところから得ているのかもしれません。ただ、森崎東以上に、カサヴェテスには悪という悪はまったくなくて、自分の人生そのものと格闘していかなければならないという印象で終わる。……しかし先ほどの藤井さんの質問に答えると、両立というのはしないんじゃないんですか。
藤井:考えれば考えるほどそんな気がしてくるんですよ。
濱口:結局、悪を設定して闘う限り……。
藤井:だからもしかしたら、不正に怒っている映画なのに、最後感動しちゃっている自分はどこか騙されているんじゃないかと(笑)。これを結構深刻な問題として考えてしまっているわけです。
濱口:こんなにカタルシスを得ているというのにまったく解決していないじゃないかと。
藤井:泣いてていいのかという。
濱口:『特出しヒモ天国』にしても転落人生だというのに。
藤井:あれも普通も作り方で言えば、山城新伍が最初から支配人をやっていたっていいと思うんですよね。営業のサラリーマンだったのが、巻き込まれてクビになってしょうがなく支配人になって、というのをわざわざやる。とことん転落を見せるわけです、落ちる前から。もちろん川谷拓三の刑事もそう。なんであそこまで見せるのか。これ要るのか?ってことでもあると思うんですが。
濱口:まさに「これ要る?」の連続なわけですが……。これをなんとか森崎さんの個人史などに回収せずに語り得るのかということですよね。
藤井:森崎さんの映画は本当に厄介なんですね。どれを見てもメチャクチャ面白いわけですが……。一点だけ政治性ということで付け加えておけば、森崎東が自分を安全地帯に置いていない、と感じさせるのは沖縄の問題を出すときだと思います。黒澤明作品(1949)のリメイクとして撮られた『野良犬』(1973)では、犯人を沖縄から働きに来ている労働者の集団に置き換えていますし、あるいは『党宣言』にも沖縄が出てくる。問題が大きすぎて今ここで整理して語れませんが、おそらく森崎さん自身にとって大きな問題、自分自身に跳ね返ってくるような問題としてあったのは、沖縄なのではないか。

6……森崎と相米

濱口:すみません、ずっと分からないということをひたすら繰り返しているんですけど。そもそもの話ですが、森崎東の本を作らなければという気運があったのは一体……。
藤井:思い出せない(笑)。濱口さんにも巻頭論考を寄せていただいた 『甦る相米慎二』(木村建哉・中村秀之・藤井仁子編、インスクリプト、2011年)を2年前に出して、それが一つのきっかけで、またこういう本も出せたらなという流れがあったのは確か。相米慎二〜森崎東というラインはあると思うんです。相米さんは森崎さんのことが大好きでしたし、森崎さんもインタヴューで相米さんの名前を出していたこともあります(『森崎東党宣言!』294頁参照)。
濱口:『党宣言』は相米さんを意識しているんじゃないかなという気もしますが。
藤井:かもしれませんね。相米さんは日活で助監督経験を積んだうえで、監督としては撮影所がなくなったあとに色々な会社を渡り歩きながら13本撮った方です。森崎さんは相米さんより年齢はずっと上ですが、撮影所の末期に撮り始めて、途中から撮影所の外の映画作りに入っていった方です。森崎さんのような人がいて相米慎二、という流れはある。人間として好きだっただけではなく、相米慎二も森崎東にそういう親近感を持っていたかもしれないと想像します。
濱口:これでは相米慎二の話になってしまいそうですが……。僕は分からないとずっと言っているわけですが、何が分からないのかもよく分からないんです。いや、何をやっているのかはそれなりに分かるんです。現場で何をしているか、どういう指示を出していそうかということは、画面を見ていれば分かるんです。しかし何がその指示を出さしめているのかが分からない。しかも不思議なのは、スタッフも役者も本当に楽しそうだなということなんです。『森崎東党宣言!』の「森崎組」座談会では、スタッフの方々がすごく楽しそうに語ってらっしゃるのですが、これ、そんなに楽しいんですか?と(笑)。それがやっぱり分からない。
藤井:いかにも大変そうなことをなぜか皆さん楽しいと言っちゃう。楽しそうにやっちゃう現場なんでしょうね。長田達也さんなんて今は日本映画を代表する照明技師ですけど、いつの間にか脚本を書かされたりするんですから(『森崎東党宣言!』153頁参照)。
濱口:今のメモってないの?みたいなことを監督から言われるんですよね。
藤井:近藤昭二さんに言わせると、「勧進帳」だと。脚本の話し合いを延々していると、こういうのはどうですか?と森崎さんが話を語り出すらしいんです。頭から終いまで、あまりに鮮やかで面白いから皆聞き惚れちゃう。で、終わった後に「書いた?」と訊かれる(笑)。「勧進帳」というのは、白紙だけどもあたかも書いてあるかのように滔々と喋るわけじゃないですか。天才的なストーリーテラーであることは間違いないですよね。ネタがたまってきたときに、パッとそれを一つの線として繋げてしまう。
濱口:いやあ、天才ということですね。
藤井:「森崎組」座談会の際には、相米さんの現場をご存じの方にもたまたま立ち会っていただいたのですが、「相米組」みたいだと仰有るんですね。いろんなエピソードを聞くと、「相米組」のあり方と似ていると。何を命令されたのでもなく、皆が自分で考え出して動き出しちゃう、しかも楽しげに。撮影の浜田毅さんも森崎さんのことを「人たらし」と言われるわけですが、相米さんの人たらしぶりも有名で。というふうに落ち着かせると、結局人間的な魅力が……ということになってしまうのですが。
濱口:まあでもそうなのかもしれないなと。
藤井:それが大きいことは間違いない。
濱口:相米本と森崎本を経て、人間的な魅力というものの圧倒的な大切さに気づかされる(笑)。相米慎二も非常に語りづらいですが、森崎東も語りづらい。ただ、語りづらさの種類が違う気がします。
藤井:相米映画の語りにくさについては、『甦る相米慎二』でまさに濱口さんがお書きになっているのですが、今回の『森崎東党宣言!』にも寄稿いただいた『Playback』(2012)の監督である三宅唱さんと話したときに彼が言っていたのは、相米慎二は言語を超えている、言葉にならないから難しい、森崎東の場合は、その素晴らしさのかなりの部分は既に言葉であると。森崎さんが脚本家でもあるということが大きいと思いますが、森崎さんの魅力って最初から言葉になっているんですよ。台詞自体が感動的だったり。だから論じるとなると、既に言葉で言われているものを別な言葉に置き換える作業になってしまう。説明にならないというか、同語反復にしかならないという難しさ。
濱口:既に言葉になっているものを追認してもしょうがないと。
藤井:それこそシナリオ読めばいいじゃんということになってしまう。森崎さんのシナリオは本当に面白いんですよ。画が目に浮かぶような脚本。でもやっぱり違うんですよ、シナリオで読むのと森崎さんの映画を見るのとでは。それは何なのか。言葉以上の何かが付け加わっているはずなんですけど。
濱口:(会場に)何だと思います?(笑)

7……混沌

濱口:実は、僕が一番好きなのは『ロケーション』(1984)なんです。
藤井:ほう。『ロケーション』も、先ほどから名前の挙がっている近藤昭二さんが共同脚本として参加しており、森崎さんの重要な作品だと思います。しかし、あれがお好き? 変な映画ですよ(笑)。もちろん褒めているのですが。
濱口:ピンク映画を即興的に作っていく話なんですよね。主演女優がいなくなって、代わりを見つけて撮ることになるのですが、その女の子のある種の自分探しに付き合うというか。そう言うとなんだかセンチメンタルな映画に聞こえますけど、全然そうではない(笑)。混沌が混沌のままというか、現場はどうなっていたのかしらという混沌具合ですよね。
藤井:ピンク映画の撮影隊が実際の「森崎組」そっくりの格好をしている。キャメラが撮っているところを本当のキャメラが撮っている、その両方が同じ服装をしている。実際のスタッフの服装なんて観客は知りませんから、そんなことしたって意味がない(笑)。それはともかく、確実に早すぎた映画ですよね。モンテ・ヘルマンの『果てなき路』(2011)とかデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001)とか、今の映画でありそうなことを80年代にやってしまっている。
濱口:美保純さんが主演女優「役」を演じていて、美保純ってこんなにいいのかと思ったんです。『ロケーション』は一番カサヴェテスの時間に似ている。美保純とも登場人物ともつかない「存在」が映画の中に浮き出てくる。森崎さんの他の作品に関してはむしろ、役者が演じているということがはっきりと映っている気がしていて、そういうところがオリヴェイラを少し思い出させるのかもしれません。
藤井:なるほど。西田敏行さん演じる主人公はピンク映画のキャメラマンで、途中から監督も担当することになる。その奥さんの役を大楠道代さんが演じていて、自殺未遂を繰り返して入院してしまう。主人公は妻がそういう状態であるということに後ろめたさを持っていて、そう思いつつ撮影に出掛けて行くと、ロケ先で妻にそっくりの女性に出会う。それが、降板した女優の代役に急遽抜擢した美保純の母親らしい。その母親も大楠さんが演じている。森崎さん自身の言葉で言えば「数奇な運命」の母娘を辿るというのが映画の後半になるわけで、本当はもっと込み入っているのですが、それにしても私が『ロケーション』で分からないのは、この「一人二役」。謎でしょ?(笑)
濱口:何のためにそんなことをしているのか分からないという。
藤井:複雑に入り組ませようとしてやっているとしか思えない。
濱口:不思議なのはそれがご都合主義に見えないということです。要するに、主演女優としてたまたまピックアップした人の母親が自分の奥さんにそっくりだという話なんですが、この荒唐無稽さにおいてご都合主義感が消えるという稀有な事態が起きている。
藤井:近藤さんに伺うと、その一人二役にこだわったのも森崎さんらしいです。面白いでしょ?と本人は言うらしいですが。確かに面白いですよ、訳分からないですから(笑)。理屈で納得はできない。

8……喜劇

藤井:でもあらためて、森崎さんの喜劇へのこだわりって何だと思いますか。
濱口:また難しい話を(笑)。
藤井:最初は松竹だからなんですよ。松竹喜劇の流れの中で出てきたから、題名に「喜劇」と付く映画を会社の要請として撮っているわけですが、いつの間にか本人が喜劇にこだわっている。喜劇にする必要がなくても喜劇にしちゃう。
濱口:そう、今日も『喜劇 特出しヒモ天国』を見ていて思いましたが、これ喜劇じゃない(笑)。殿山泰司が妙なお経を読んでいたりするから、そんな印象が作られてますが、全然違う。『森崎東党宣言!』で加瀬亮さんや浜田さんが言われていたことが一番しっくりくる。「喜劇と付けば何をしてもいいと思っている」という(笑)。
藤井:「森崎東の専売特許だ」と(笑)。
濱口:でも確かに喜劇だと思って見るわけですから、起こるあらゆることを許しながら見ていくという奇妙な体験はありますよね。
藤井:突拍子もないことが起きても喜劇だからしょうがない(笑)。
濱口:そのことに森崎さんがやりながら気づいていった、ここが観客と繋がるラインなんだなと思ったのではないか、という気がしますよね。喜劇という言葉を付ける、喜劇だと言い張ることによって観客との関係が復活してくるというか。
藤井:それで言うと、最新作の『ペコロスの母に会いに行く』も原作の漫画があるわけですが、認知症というデリケートな話をやはり喜劇として撮っている。どうご覧になりましたか。
濱口:2回拝見したのですが、正直な印象を言うと、1回目は森崎映画だと思って見るので、一体どうしちゃったのかしらと思ったんです。
藤井:毒が薄れているということですか。
濱口:あるいは怒りの要素。それが、2回見たときにそういうことがまったく失われているわけではないのがまず分かって、そして、こんなにもちゃんと「映画」だったんだ、という気持ちになりました。始めから終わりまでこんなにもすうっと見れる映画は今存在しない気がします。『ペコロス』を見て号泣したという評判も次々に聞こえて来るのですが、藤井さんはどうでしたか。
藤井:始まると同時に泣き続けましたよ。「早春賦」を歌っている女学生たちを背伸びして窓から覗くところから、こういう映画なんだと泣いてしまう。向こうを覗く映画。そう思って見ていましたから、窓から外を覗くシーンがクライマックスとしてあったのがカットされたと後で聞いて(『森崎東党宣言!』136-137頁参照)、少々残念に思いもしましたが、それはそれとして、たしかに語り方が難しいんですよね。とってもいい映画で、誰にでも安心してお奨めできる。今の日本映画に欠けているものがああいうものだというのは間違いありません。そういう意味で全力で応援したい。と同時に、ずっと森崎作品を見ていると、森崎東の本領というのはこんなもんじゃないよねというのもある。でも、紛れもなく森崎東の映画になっているのは、これは原作とかなり違っているところですが、赤木春恵さん演じる女性の一生の部分ですよね。
濱口:原作とは違うんですね。
藤井:原作にも要素はあるのですがあんなに大きくはない。映画では「女の一代記」という趣きがあります。
濱口:僕は泣くというよりはずっとあっけにとられていました。
藤井:どういう意味で。
濱口:森崎さんの映画については毎度なのですが、これを演技としてやっていいんだということ。今、自分が喜劇を撮るか撮らないかと考えると、撮れないだろうなと思う。それはつまり、喜劇的な振る舞いに対してカメラを向けることが自殺行為なのではないかという気がするわけです。
藤井:それと同じ意味かどうかは分かりませんが、見ている私からしても、現代において「喜劇」というものが成立しにくいだろうなというのは感じますね。ある滑稽な人物の滑稽な振る舞いをひたすら皆で笑っているだけでいいのかというところへ映画が来てしまったというのもあるかもしれません。
濱口:結局喜劇というのは、「こんなことしないでしょ」の集まりでなっている。「こんなことしない」ということを役者もスタッフも一緒になって、エンターテインメントとも違うレベルで、観客を楽しませるためにともどうも思われないレベルで、『ペコロス』は、ただ単に「喜劇」というものを志向して、しかもそれをすうっとやっているという印象があります。『ペコロス』を1回目に受け入れがたかったのは、そういうところも大きいと思うのですが、2回目には、これでもすうっと入れるんだ、ということの驚きがありました。
藤井:しかし、そんなことをしれっと仰有いますが、濱口さんも喜劇をお撮りになっているわけですよ。「喜劇」と一言で済ませていいかは別にして、『永遠に君を愛す』(2009)は結婚式を扱った喜劇を撮ろうとされたんだと思います。笑いが喉につかえるような、気持ちよくスカッと笑えるようなものではなく、というのが現代的ということかもしれませんが、そのように作っておられますよね。やはりああなりますか。
濱口:喜劇そのものに対する厚い信頼をいうものを僕自身が持たないと撮れない、という気はします。「現場の皆さんは不安でしょうけどこれで良いんです」と言えるようにならないと、というか「良いんです」とさえ言わないようにならないと。喜劇というのは、ある種の狂気みたいなことだと思うんです。テレビのエンターテインメントなどとは違う、喜劇というものに含まれているのは、ある種の狂気ではないかと。喜劇は狂気まるだしって感じなんですよね。ある種の狂気を描きたいという気持ちはつねに持っているんです。喜劇って、映画の中で普通の軸が取り払われた状態で狂気だけがある。それが今の自分にできるかというと非常に悩ましい。
藤井:単に渥美清がいればいいのかということとは違う意味でですよね。そういう優れたコメディアンがいれば撮れるのかというと必ずしもそういうことではない。
濱口:そうですね。この「喜劇」というタイトルが羨ましいというか、そうすれば観客と関係を持つことももしかしたらできるのかもしれないなと(笑)。
藤井:何が起きても笑ってくれと。
濱口:喜劇ということによって正当化された、戯画的なキャラクターというのがいますよね。そのキャラクターたちを使うことによって一気にこんなところまで飛べるんだという感じはあります。先ほど「悪」の話がありましたが、僕たちが普段送っている日常生活においては、悪というものを感知しづらくなっている。森崎さんの場合、一つにはマイノリティを描くことによってそれが感知しやすくなるんだと思うんです。「社会派」というのとは違う印象ですが。
藤井:そういうフレーズは似合わないですよね。
濱口:映画としてすうっとそういうところに行くことが可能になる魔法の言葉として、「喜劇」というのがあるのではないかと。だから本当に羨ましいというのが正直なところです。
藤井:しかしそれは森崎東の「専売特許」であると。
濱口:ですから自分の道を切り開かなければならない。
藤井:森崎東にとっての「喜劇」にあたる何かを濱口竜介も発見しなければならないということですね。

[対談構成者付記]

上記は、2013年12月29日に神戸映画資料館にて「連続講座:映画批評_新しい映画と観客のために/第5回:森崎東党宣言!」として開催された対談を加筆・再構成したものです。ウェブへの掲載にあたって、同館支配人・田中範子氏に感謝します。なお、対談中に、『森崎東党宣言!』出版のそもそもの企図を「覚えていない」などというそれ自体胡乱な発言がありますが、この件に関しては、上掲の神戸映画資料館のリンク先に載せられた藤井氏による檄文「今の日本には「森崎東」が欠けている」をなにとぞご参看いただきたく存じます。また、森崎東における「沖縄」については、『森崎東党宣言!』17頁でも参照されているとおり、四方田犬彦氏による論考「生きてるうちが、野良犬——森崎東と沖縄人ディアスポラ」(四方田・大嶺沙和編『沖縄映画論』作品社、2008年)をぜひご一読ください。

採録=岡本英之

構成=中村大吾(éditions azert)
■書籍紹介
『森崎東党宣言!』
藤井仁子=編
森崎映画の真髄に迫る論考・エッセイ8篇や、森崎映画への思いを聞く俳優・スタッフインタビューを掲載、監督への12万字超ロングインタビューも再録し、テレビ作品や映画使用楽曲まで網羅したフィルモグラフィも備え、さらには『男はつらいよ フーテンの寅』準備稿(ボツ脚本)まで収録。森崎東的ごった煮の一冊!
インスクリプト、四六判432頁、2013年11月刊行、税別3800円
目次ほか詳細:http://www.inscript.co.jp/b1/978-4-900997-40-0
■上映案内
祝『ペコロスの母に会いに行く』キネ旬1位
「森﨑東 映画賛歌」
新文芸坐、2014年3月23日(日)〜4月6日(日)
笑いと怒り、そして悲しみ それは人生と映画の根源だ
デビュー作『喜劇 女は度胸』から最新作『ペコロスの母に会いに行く』まで、21本を日替わり上映。
プログラム詳細:http://www.shin-bungeiza.com/program.html#d0323
★トークショー
3月25日(火)17:20の回終映後
掛札昌裕(『女売り出します』『盛り場渡り鳥』共同脚本) 聞き手=中村有孝
3月29日(土)13:40〜
近藤昭二(『生きてるうち…党宣言』『ロケーション』『ニワトリはハダシだ』共同脚本)
+TOHJIRO(=伊藤裕一、『黒木太郎の愛と冒険』出演)
3月30日(日)13:55〜
浜田毅(『生きてるうち…党宣言』『ニワトリはハダシだ』『ペコロスの母に会いに行く』ほか撮影) 聞き手=山根貞男
  • 『藤井仁子(ふじい・じんし)』
    1973年生。早稲田大学文学学術院准教授(映画学)、映画評論家。編著に『森崎東党宣言!』(インスクリプト、2013年)、『甦る相米慎二』(共編、インスクリプト、2011年)、『入門・現代ハリウッド映画講義』(人文書院、2008年)。神戸映画資料館ウェブサイトにて、映画時評「一年の十二本」を連載中。初の単著『スピルバーグ 孤児の歴史学』(仮題)の刊行が待たれる。
  • 『濱口竜介(はまぐち・りゅうすけ)』
    1978年、神奈川県生まれ。東京大学文学部を卒業後、映画の助監督などを経て東京藝術大学大学院映像研究科に入学。2008年、修了制作『PASSION』がサン・セバスチャン国際映画祭や東京フィルメックスに出品され高い評価を得る。その後も日韓共同製作『THE DEPTHS』(2010)がフィルメックスに出品、東日本大震災の被災者へのインタビューから成る『なみのおと』『なみのこえ』、東北地方の民話の記録『うたうひと』(2011~2013/共同監督:酒井耕)、4時間を越える長編『親密さ』(2012)、染谷将太を主演に迎えた『不気味なものの肌に触れる』を監督するなど、地域やジャンルをまたいだ精力的な制作活動を続けている。現在は活動拠点を神戸に移して活動中。