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boid・樋口泰人氏×三宅唱監督『天国の門』から広がる映画談義

本企画は、普段から親交があるという、boid主宰・樋口泰人氏と三宅唱監督(『Playback』)による『天国の門』から広がる映画談義。 なぜ樋口氏は『天国の門 デジタル修復完全版』を配給することを決めたのか?30余年を経て見えてくる本当の『天国の門』の姿とは?

※マイケル・チミノ監督作品『天国の門』は、撮影期間と予算の超過によってハリウッドの老舗スタジオを倒産に追いやった映画至上もっとも呪われた問題作と言われている。2012年、すべてチミノの監修のもとデジタル修復が行われた。2013年、『天国の門 デジタル修復完全版』を日本に配給したのがboidの樋口泰人氏である。
—『天国の門 デジタル修復完全版』は、2013年6月の爆音映画祭で、公開を前に1度だけ上映がおこなわれました。多くの映画ファンが詰めかけ話題となりましたが、その際、三宅監督もいらっしゃっていて、『天国の門』は学生の頃から好きな映画だったということをお聞きしまして、こうした場を企画させていただきました。それではよろしくお願いします!

「30年後同じ映画をもう1度見るために」

三宅:樋口さんは81年の『天国の門』公開当時は劇場で見られてますか?
樋口:当時、今のシネマートの前の劇場、新宿文化でバイトしていたんだけど、『ディアハンター』も『天国の門』もそこで見てる、たぶん。でも大変な作品だけど失敗作っていう悪い評判ばかりが伝わっていたから、好きな人は見に行っても、それ以上の人には全然広がらないという感じだったと思う。当時はマスコミとかメディアに関わっていたわけじゃないから正確なところはわからないけど。
三宅:じゃあ、当時の樋口さんがどう見たのか、それをまずお伺いして、で今どう見ているのか、その違いを聞くところからはじめたいです。
樋口:俺どこかの原稿でも書いたんだけど、リアルタイムってのはロクなもんじゃないんだよね。ダイレクトに何か体験できると思っているけど、実はそんなことはなくて、リアルタイムこそフィルターかかりっぱなし。リアルタイムで見ればいいってものでもなく、全然違うところで色んなことが起こってくんだなって思うね。
三宅:リアルタイムってなんなんだ、と。
樋口:俺なんかも当時普通には見られたけど、30何年経ってその間に自分が見た映画や、自分が生きてきたこととかを含めて見ると、完全に今見た方が面白いんだよね。だから、「今」って何だろうって思うときがあるよね(笑)。映画っていうのはそういうことができる。演劇だったらもう今しかないじゃない。その役者がその状態でやっているのはその時だけで、それはそれで面白いんだけど、映画って同じものが30年後また見られる。でも見る方が違っている。
三宅:そもそも同じものを2回見るだけで違うし。
樋口:もうへたすると監督や作った人たちのものでもなくなっているのかもね。30年後現れてくるということも含めて。
三宅:じゃあ今の若い人たちは30年後にもう1度見るために今見なきゃならないってことですかね。
樋口:そうそう、そういうことだよね(笑)。

「ちっちゃい話とでっかい話のわかりづらさ」

三宅:30年経って印象が変わったということですけど、最初の引っかかりってどういう部分でした?
樋口:記憶がおぼろげなので当時の自分を想像するしかないのだけど、ちっちゃい話とでっかい話があって、それがよくわからないという印象を受けたんだと思う。たかだか3人の話でもあるのに、それがあんなにでっかい話になっていく。でもいったいどこでどうなってそうなったのか、よくわからない部分が各所にある。今はそれがすごく面白く見えるんだけど、当時は奇妙でわからないものとして見えて、語られてない部分の広がりを、うまく受け止められなかったんだと思う。『ディアハンター』でもそうなんだけど、チミノの時間感覚ってわからないところない?
三宅:ある部分はすごく引き延ばされている。
樋口:そう。その反面ある部分はすごく省略して一瞬で飛んじゃうでしょ。その感じを見たことがなかった。当時まだ若かったから、そういった時間の変化にものすごく戸惑ったんだと思うし、おそらく今でもそんな時間感覚で映画を作る人あまりいないんじゃないかな。
三宅:それやると、本当にいびつになりそうですからね。僕も初見の印象は、まずでっかい話の方に翻弄されました。たった3人のちっちゃい話であることには気づかず、でっかい話があって、その中で、バイオリン弾きのお兄ちゃんだったり、それを聴いている子だったり、あるいはラストの方で足踏まれたり、ただただ撃たれる人も、大げさに言えばほぼ3人とも等価に見えたくらいだった。でもこの間「爆音映画祭」で見て、めっちゃちんけな話じゃんかよ、とようやく思ったんですよ。クリス・クリストファーソン、どんだけ自分勝手で俗っぽい男なんだよ、と。
樋口:ね、本当にあの最後の船のシーンは一体何だったんだろうって思うよね。
三宅:あんな男、アリなんですか。ラストで、今までのユペールとの物語ががくっと変わる。ユペールとの時間を見ている間、奥さんがいたことをすっかり忘れてた。
樋口:普通に想像すると、奥さんが元々いたからユペールに踏み込めずにずるずるといってしまったんだろうけど。
三宅:ドラマ上そういうことなんでしょうね。僕は初見のとき、クリストファーソンに奥さんがいるっていうこと自体理解していなかったんですが、今回見たら、ただの浮気じゃねーか!っていうね。それで「結婚する」とはユペールに言えなくて、無惨になる。おまえこの野郎!と(笑)。ラスト、勝手に込み上げて泣いているシーンを見たとき、自分が『天国の門』を好きだと言っていたことが、めちゃくちゃナルシスティックなことなんではないか、自分のそういうナイーブさを突破するためには、このクリストファーソンを全否定しなければならないんじゃないかとすら考えたんですが。
樋口:俺は逆に、クリストファーソンが身動きとれないところにどんどんいっている感じがたまらなかった。冷静に考えると酷いことをしているんだけど、それでもそうせざるを得ないといういたたまれなさ。でもユペールから見るとどうだったのか、そこらへんは未だによくわからない部分があるんだよね。クリストファーソンが戻ってきたときユペールがものすごくいい笑顔で迎えるんで、逆にウォーケンが出てきたときすごく戸惑うよね。
三宅:あのユペールは、すごいですね。ウォーケンの気分になると、勘弁してほしい。
樋口:でも今回はわりと素直に見られたんだよね。例えばデプレシャンの映画とかって女も男もひどい話がいっぱいあるじゃない。そういうひどい話を平気で面白く撮る監督の映画をその後に見て、もう1度『天国の門』を見ると、ここで語られてきたことがなんとなくわかるような気がして。この3人の関係っていうのはヌーヴェル・ヴァーグの女1人男2人の話とも繋がるようで全然違うでしょ。ヌーヴェル・ヴァーグだとある種の友達関係があったりして、違和感なく3人が作る空間が見えてくるんだけど、これって3人が作る空間がいびつすぎる。チミノのやっていることってどこまでいびつで歪んでいるんだろう。
三宅:それをさもあたりまえのように見せられてしまう。見せ物とか露悪的な感じがまったくないから最初は気づかなかったけど。
樋口:そうなんだよ、画面に映っているのはそれくらい確かなことなんだよね。当時のアメリカの観客には、アメリカの暗部を描いたとか贅沢し過ぎて製作会社をつぶしたとかいう悪い評判とは別にちっちゃい話の方がすごくわかりづらかったのかもしれない。
三宅:視覚的にも豪華な仕掛けで、ずっとぐるぐる回っているからそれ見ているだけでも面白いはずなんだけど、やっぱりというべきか、観客は当然そういうスペクタクルだけでは映画を見ていない。いわゆる物語、3人の関係が掴みづらかったのかもしれないとは思いました。
樋口:当時もフランスだけはそこそこヒットして、今もわりと大きめに公開されているらしい。アメリカでは確か今回のバージョンは公開されてないんだよね。映画祭でやったくらいなのかな。リバイバルロードショーみたいな形では上映されないままブルーレイが出ちゃった状況だから、30年経ってもアメリカ人にはウケてないってことになるんだろうか。例えばデプレシャンの『クリスマス・ストーリー』みたいな映画を生み出したり受け入れることができるフランス人にとっては、『天国の門』の小さな人間関係も想像がつきやすいのかもしれないと、ぼんやりと想像してはいるんだけど。
三宅:タイトルからして「天国」とか「門」とか大きいので、そういう大きなものの中に入る感じがするんですよ。でも、本当はこの映画がどれだけちっちゃいかってところにかかっている。
樋口:昔、蓮實さんが何かに書いていたんだけど、コッポラが『ゴッドファーザー』とか撮って、大きな映画ばかり作り始めたときに、コッポラはちっちゃい映画を作る方が似合ってる繊細な監督なのだ、と。チミノもコッポラ的な繊細さとはまた違うのかもしれないけど、それこそ視線だけで作り上げるドラマなんかをやったら面白いんだろうなと思うことがある。
三宅:僕らみたいな撮る側からしても、いま大きなものをつくることがムリなんだとしたら、じゃあちっちゃい話をどれだけ大きく見せるかっていう形を考える。
樋口:そういうこと考えると『天国の門』は目の毒だよね(笑)。
三宅:やっぱぐるぐるとか一度は撮ってみたいわけですけど。
樋口:でもちっちゃい話を撮らざるを得ないにしても、でっかい方の話は見せずに3人だけを描いて、あの広がりを想像させるっていうやり方は、可能性としてあるよね。観客の側もみんなが『天国の門』を見ていれば3人だけの話の中に、そこには描かれていないばかみたいに大きな広がりを見てくれるかもしれない。

「立派な人は出てこない」

三宅:最近よく「通俗的」という言葉について考えるんですが、どういう意味で使うものなんですかね。
樋口:ある何かが流通しやすいってことだと思うんだけど。
三宅:誰にでもわかる、ありえる、みたいなことだとしたら、『天国の門』だと、そのちっちゃい話の部分が通俗ってことですよね。エロいし、下衆だし。
樋口:本当に下衆な人たちの話だしね。だってなんやかんや言っても、ユペールは娼婦たちをしきってるおばちゃんだからね(笑)。
三宅:例えば森崎東の映画に出てくる倍賞美津子と同じ役割ですよね。最近また小津を見たりしていても、一見、潔癖に見えるけどどう見ても通俗なんですよ。みんなまともに仕事しないで、会社に女の子呼んでじゃあお茶でも行こうかってサボって、他人の結婚に口出してるおっさんばっかり出てきますからね。
樋口:立派な人誰も出てこないもんね。
三宅:ちっちゃい部分から出発していて、むしろそれのみを語っていたりする。
樋口:通俗で下衆な人たちがある瞬間にわけのわからない大波に乗せられて、気が付くと自分でもコントロール不能な状態になって、さてどうしていくのかって話はやっぱり映画として見たいよね(笑)。
三宅:見たい見たい。

「それだけ金がかかるチミノの撮影」

三宅:撮影についてですが、ものすごい贅沢な画面だな、とやっぱり思うわけです。でも「マイケル・チミノ読本」を読むと、だからといってふんだんに時間とお金があったわけではなくて、ヴィルモス・ジグモンド(撮影監督)たちがおそろしくがんばっていて、無理をしながらなんとかあの画面をつくりあげて、結果的にどうしてもこれくらい金がかかってしまった、と。はじめから贅沢があったわけではないんですよね。
樋口:そうそう。資料を読むと、当初の予算は西部劇を撮ろうとしたら、あの時代ではかなりギリギリの予算だったみたい。まあでも、やっぱりそのくらい金かかるんだよね。
三宅:70年代終わりはすでにそんな贅沢ができる状態ではないのはわかるので、だから、この現場はそういう時代をはじめから無視していたのだと思ってたんですが、むしろ時代の犠牲になるくらい闘った映画なんだ、とも思えた。でもやっぱり、混乱しますね。この本を読むと、最初のオックスフォード大学のシーン、実際は違う大学らしいですけど、ゲリラ撮影なんだという、ちょっと信じがたいことが書いてあって(笑)。一方であまりに他の撮影が大変すぎたのか、ローラースケートのシーンの撮影が1番簡単だった、と。すごく難しそうなことやっていると思ってたのに、簡単だったなんて、信じられない。
樋口:そうそう(笑)。
三宅:今の僕らの感覚とはちょっと違いすぎるので、もうなんだかわけがわからない。撮影行為自体はどんな時代であれ一緒のはずなのに。
樋口:多分違うのは画面に映っている人の数。おそらく、外での撮影はどこかで何か不具合が起こったときにそれでおしまいになっちゃうようなことがあるのに対して、室内撮影のローラースケートのシーンは不確定要素が少なかったんだろうね。例えば、あれだけ馬用意したらそりゃ大変だよね。というか、おそらく撮影自体が、どこかで不意の出来事が起こることを期待した上で全体をコントロールしているようにも見えてくるしねえ。
三宅:それに比べたらマシっていうだけの話か……。
樋口:チミノの感覚としては、例えば今タランティーノが『デス・プルーフ』を撮るような感じに近いものがあったのかもしれない。かつてあったはずの何かを今ここに蘇らせるための試みというか。『デス・プルーフ』では車だったから2,3台の車をつぶすだけで作ることができたのが馬になって、更に馬が増えた瞬間に一気に金額が2ケタ違ってしまったんだろうね。だって馬の調教師を全米から集めたって書いてあったしね。
三宅:やっている桁が違いすぎる。にも関わらず、あの卒業式の答辞のシーンは朝から晩までの1日で撮影したと書いてありましたよね。あの相当なカット数を1日で撮りきってしまうのか、とも思って。
樋口:どこにどんなふうに時間がかかっているのかまったくわからない。ローラースケートシーンも簡単だったとは言え、結局あのシーンに出ていたバンド・メンバーたちは半年くらい現場にいてようやく撮影に入ったという話だしね。1日、2日延びたっていうならまだしも、半年っていうのは想像がつかない。
三宅:ジグモンドのインタビューで「マイケルは完璧主義者だから」とか書いてあったけど、チミノからするとまったく完璧ではない。撮影に対してなんて業が深いんだと思いました。あと、単純に3人以外の登場人物を丁寧に撮り過ぎている(笑)。終盤なんて、撃たれて死ぬ人間を、死ぬ前のカット、撃つ奴のカット、撃たれて死ぬカット、更にもう1回死んだ後も映す。そりゃ印象に残るわ。
樋口:最初のバージョンは5時間くらいあったらしいんだけど、それはそれですごく気持ちいいというか、もう、見ているこちらも完全に砂ぼこりの中で彼らとの時間と歴史を共有できてしまうんじゃないかと思っていて。ヴェンダースの『夢の涯てまでも』の公開バージョンが2時間半くらいで、ディレクターズカットがやっぱり4時間半か5時間あるんだよ。するとね、そっちの方が短く感じるんだよね(笑)。
三宅:……?
樋口:要するに映画のリズムってあるじゃない。
三宅:ああ、なるほど。
樋口:そのリズムに乗っかっちゃうとするっと見られてしまう。見たこともないからわからないけど、もしかしたら『天国の門』は5時間半バージョンが最もするすると見られて、みんなが納得するというか、おそらく今回のバージョンで語られていないために誰もが疑問に思う部分も見えてくるようなものかもしれない。映画の持っている時間感覚って単に上映時間だけの問題じゃないから。
三宅:もちろんカットの長さであり、例えばジョン・ハートの物語が中盤でもっとあれば、全然違うものになっただろうし。
樋口:だから、もしかしたら5時間半バージョンはジョン・ハートの映画になっているかもしれないよね。
三宅:最初に観た時、どう考えてもジョン・ハートだったのに、途中ぜんぜん出てこない。
樋口:冒頭は絶対ジョン・ハートが主人公だろうなって思うよね。
三宅:いつの間にかあいつの立場もよくわからないところにいってしまいますよね。
樋口:ジョン・ハートがただのだめな酔っ払いになるまでがまったく抜けている。
三宅:成れの果ての姿が、飛躍としてポンとでてくるからこそ、驚きというかショックがあるといえばあるんですが。
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「なぜわざわざ失敗したものを見たがるのか」

樋口:全体で見ると、みんなロクな人生を歩んでいないというところが前提なんだよね。なおかつ、失敗することにロマンチックな思いはなくて、ダメなものはダメなのだっていうところはちゃんと押さえている。『天国の門』でそこを描いているからこそ、それから10年後に作られた『逃亡者』とかがすごく面白く見えてくる。
三宅:『天国の門』、チミノは監督3本目ですよね。年齢は40代だったはずだけどまだ3本目というのが信じられないんだよな。コッポラも3本目くらいに『ゴッドファーザー』だけど。
樋口:しかも、それでもうほとんど撮れなくなってしまうから恐ろしい。アメリカという国にしろ、アメリカ映画にしろ、誰にも見えてこないんだけど人を捉えてしまう得体の知れないものがあるんだろうと思う。オリバー・ストーンの『ニクソン』でアメリカは野獣だって話が出てきて、大統領はその野獣を調教する人なのだっていうような話が出てくるんだけど、多分野獣みたいなものが本当にあるんだと思うんだよね。
三宅:樋口さんの「映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか」にも書いてありますが、『心の指紋』の話のところで、フォードだと。たしかチミノ本人も言っているんですよね。要するに、帰ってきた娘がこうも無惨になってしまうのかってところが、フォードでも確かにそうだったけど、『天国の門』ではそれがより無惨で、より切実なものとして見えてくる、と。
樋口:その無残さが、物語さえ壊してしまう感じがするよね。フォードだったらまだ物語の終わりは終わりとして見せられたところが、チミノだとまったく閉じられなくなってきている。それは無残でもあり、だからこそそこにかすかな希望が浮かび上がる。
三宅:でもなんでわざわざ、みんなが無惨に失敗したりしくじったりする姿を見たり、撮ったりするんですかね?
樋口:そうだよね(笑)。
三宅:それに勝手に感動したりして、映画を見る人は変な人たちなわけで。なんででしょう。
樋口:コッポラなんかにしてもそうなんだけど、失敗というか欠落したところに向かって行く意思のようなものが、何かに背中を押されるような形で進んでいっているのではないかという気がしてならない。例えば、映画も作り始めたら終わらせないと映画じゃないし、フィルムも回り始めたら最後までいくしかない。多分、自分にとっての完成形と、それを後押しするものに動かされたときとの完成形がずれていくんだよね。何て言うか、こういうものを作りたいと思って何かを始める。そして作っているうちに何かに背中を押されて少しずつ道を踏み外していく。一度踏み外したら後戻りできないし、修正はできるかもしれないしできないかもしれない。いずれにしても通常の人間的に完結した映画ができるわけがない。映画を作っているのか映画に作られているのかよくわからない状態がそこに立ち現れてくる。それが語る物語を見たい、というようなことなんではないかと。
三宅:フィクションの中で、何かが成功するのか失敗するのかで全然違う。例えば、ダニエル・シュミットの『ベレジーナ』では見事に革命が成功しますが、成功はやっぱりコメディ、喜劇にならざるを得ないんだろうか、みたいなことを考えたんです。どうやって現在と折り合いをつけるかってこととして。
樋口:スタジオ時代の映画でいうと、そういう感覚ってあんまりなかったのかもしれない。折り合いをつける着地点が見えた上で、そこに落ち着くか、はずすかの選択肢はあったと思う。ただ、時代が変わって、スタジオなりプロデューサーなりの枠が取っ払われたとき、選択ができない状況に監督が置かれた。スタジオ時代に、わりとルーティーンの中で映画が作られていたときとは違うところに着地点が置かれてしまって、そうなったとき失敗せざるを得ないことになってしまったのではないかな。なぜそうなってしまったのかをものすごく大雑把に言うと、スタジオ時代は商品として映画を見せて、それが面白いかつまらないかだけでことが進んでいたのに対して、例えば『天国の門』だと面白いかつまらないかということよりも、目に見えない誰かによって失敗作と言われたらもうそれっきりになってしまうよりどころのない感じがある。自分が作ったものを誰かが見るっていうことに対しての信頼が高くなっていったんだと思うんだよね。“誰かが見ることでようやく完成する映画”という意味で、完成していないものがそこに現れ始めた気がする。批評の言葉が必要という意味ではなくて、否応なく投げ出されてしまう映画があるのだ、という強い力によって、逆に見る側の力を必要とする映画が生まれた、と言ったらいいか。
三宅:スタジオ時代は、「見た」という反応そのもので一応終わっていた、と。でも今はそこに成功の尺度はもうなくて、「見たあと、さあどうですか」ってところでようやく始まる、と。
樋口:あえてはっきり言ってしまうと、スタジオ時代は「未来を見せること」がある映画の使命だったけど、それ以降の映画は「未来をここに置くこと」でここから始まるんだということを示すものになっているのではないか。さっきの話にもつながるけど、みんなロクな人生を歩んでいないことを前提に、全部足下に置いて未来と今を循環させる役割としての映画。その上でそれらが見せてくれる自分たちの足下を手がかりにしてようやく自分たちは前に進むことができる。そういう意味で映画を見たいなと思っていることは確かなんだよね。映画が示す未来を夢見るんじゃなくて、映画自体が自分の足元から自分の中に入り込んでくるような感じ、ということなのかな。

「最後に」

三宅:序盤に出ましたが、30年後もう1度見るためにも、今の学生とかは、何があってもとりあえず見ておいた方がいいと思う。せっかく間に合ったんだから。というのも、例えば、僕の前後の世代に限っていえば、「ハワード・ホークス映画祭」に間に合っているかどうか、「CASSAVETES2000」に間に合っていたかどうか、「小津安二郎生誕100年」を見たかどうか、こういうのが案外世代をわけるし、その人の映画観をもわけているような気がするんですね。僕はぎりぎり「ダグラス・サーク特集」とかは間に合えたし、それは本当によかった。近年大学入ってきたやつは、アルドリッチ見て、『天国の門』見て、ニコラス・レイ見て……という流れになるはずの世代なんです。まあそいつの人生がどうなるかは責任持てないですけど、樋口さんっぽくいうと、去年今年はそういう波が続々きているんだから、と。爆音収穫祭も、今年はこんな波がありました、みなさんこの波のりました?ということで。
樋口:(笑)。俺の時代は大学入って映画見始めた後にようやくシネ・ヴィヴァン・六本木ができたんだ。それまでは淀川さん的な映画の教養があって、かろうじてヌーヴェル・ヴァーグの山田宏一さんがいたくらいだった。だからほとんどの映画を見られなかったから、逆に順番にゆっくり吸収できてありがたかった。今はレンタル屋もふくめたら、一気にいくらでも見られちゃうから逆に大変だよね。
三宅:でもとりあえず、『天国の門』というとんでもない大波が30年ぶりにやってきたわけですよ。じゃあやっぱりみんな、どんな波か見に行った方がいいよ、ということで。
樋口:『天国の門』なんかはやっぱりそういう意味でできる限り出会うべき伝説のビッグウェーヴということになると思う。そしていかにみんながちっちゃい映画を撮れるか、ちっちゃい映画の中に広がりを見られるかは『天国の門』をどれだけの人が見るかにかかっています(笑)。
—本日はどうもありがとうございました。
スケジュール
2013年10月5日(土)より、シネマート新宿、10月26日(土)よりシネマート心斎橋にて公開!
詳細はこちら→ http://www.heavensgate2012.com/theater.html
公式サイトはこちら→ http://www.heavensgate2012.com/
構成・写真 石川ひろみ
『天国の門』
監督・脚本:マイケル・チミノ/撮影監督:/ヴィルモス・ジグモンド/音楽:デヴィッド・マンスフィールド/出演:クリス・クリストファーソン、クリストファー・ウォーケン、イザベル・ユペール、ジョン・ハート、他/216分/配給:boid
ストーリー:19世紀末のワイオミング州ジョンソン郡。増え続けるロシア・東欧系の移民たちを疎ましく思う牧場主たちは彼らの粛清を開始。その処刑リストには、保安官エイブリル(クリス・クリストファーソン)の恋人エラ(イザベル・ユペール)の名も連なっていた。彼女を救い、牧場主の雇われガンマン、ネイト(クリストファー・ウォーケン)との三角関係にもケリをつけたいエイブリルと、自分の居 場所に執着し愛の形も貫こうとするエラの想いはすれ違う。そして事態はいよいよ全面闘争という最悪の局面を迎えようとしていた......。 http://www.heavensgate2012.com
監督プロフィール:『マイケル・チミノ』
1939年生まれ。イェール大学では美術を専攻し、修士号を獲得。ニューヨークへ移り、60年代後半にはTVコマーシャル演出家に。71年ハリウッドに移り、脚本執筆を始める。73年には『ダーティハリー2』の脚本をジョン・ミリアスと共同で手掛ける。このときクリント・イーストウッドと知り合った縁で、イーストウッド主演の犯罪もの『サンダーボルト』(74)で監督デビュー。そしてヴェトナム戦争へ赴いた若者たちが辿る悲劇を叙事詩的に描いた大作『ディア・ハンター』(78)で世界的な評価を得るのだが、その評価を背負って製作された『天国の門』(80)で大幅に予算をオーヴァー、歴史に残る赤字を記録した。その後の映画製作は思うに任せず、長編監督作は中国系マフィアに立ち向かう孤独なアメリカ人刑事を描いた『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)、イタリアで撮影されたマリオ・プーツォ原作の『シシリアン』(87)、『必死の逃亡者』(55)をリメイクした『逃亡者』(90)、不治の病に侵された先住民青年と彼に人質にとられた若き医師の長旅を描いた『心の指紋』(96)の4本のみ。
  • 『樋口泰人(ひぐち・やすひと)』
    映画評論家、音楽ロック評論家。爆音映画祭ディレクター。現在も自ら爆音調整に立ち会っている。98年に「boid」を設立。爆音上映、映画配給、boidレーベル、boid出版など、多岐に渡る仕事で多くの監督や作家から支持をえている。著書に「映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか」「映画は爆音でささやく 99-09」などがある。「マイケル・チミノ読本」も絶賛発売中!
    boid→http://www.boid-s.com/
  • 『三宅 唱(みやけ・しょう)』
    1984年札幌生。2007年映画美学校フィクションコース初等科修了。2009年一橋大学社会学部卒業。2009年短編『スパイの舌』(08)が第5回CO2オープンコンペ部門にて最優秀賞を受賞。2010年初長編『やくたたず』を製作・監督(第6回CO2助成作品)。最新作『Playback』(2012)が第65回ロカルノ国際映画祭インターナショナル・コンペティション部門に正式出品、また第27高崎映画祭新進監督グランプリを受賞。東京では10週のロングラン上映を記録した。
  • 『定者如文(じょうしゃ・ゆきぶみ)』
    兵庫県神戸市出身。映画少年だった幼少期、バイクに溺れた10代、旅行に彷徨った20代前半を経て26歳で大阪芸術大学映像学科に入学、30歳で卒業・上京し東京藝術大学映像研究科第一期生として過ごし31歳で映像業界へと進む。その後映像業界で数々の現場をこなし東京で過ごした10年のキャリアの集大成として本年度の文化庁新進芸術家海外研修制度を利用してアメリカへと渡る予定。